第二章-7 青春の黒いギター

僕はより一層アルバイトに精を出した。一円でも多くお金を貯めて学費の足しにするんだ。そう、強く思ったからだ。
だが、その決意は長くは続かなかった。ごく普通の高校生の日常というものが僕の決意を無力化していく。放課後になるとカラオケやボーリングへ誘わわれるし、仲のいい友達には彼女が出来て幸せシャボン玉いっぱいを振りまいてる。それでも、僕は料理学校に行くんだと、遊びの誘いを断り、彼女なんていらないと自分に言い聞かせ、お金のためにとアルバイトに精を出した。だが、次第に、「小川、つき合い悪いなぁ」なんて言われるようになり、みんなが楽しそうにしてる、その様子が羨ましくてたまらなくなってきた。

父が料理学校へは行かせてくれると言った。もう、僕がお金のことなんか心配しなくてもいい。よく考えてみれば、それはそうだ。親は二人とも働いているんだし、大人なんだし、100万や200万くらいの貯金はあるんだろう。そもそも、子供が学校行きたいといえば、親はお金を出して当たり前だ。
僕は、毎日のアルバイトがしんどいと思い始めた。もう僕が必死に働くことはないんだと。僕はまだ高校生だ。もっとみんなと遊びたい。彼女も欲しい。
そんな子供っぽい欲が、僕の心を歪めていく。誘惑が、僕の心をあらゆる方向にぐいぐい引っ張る。僕は、その力に抗うことを、いつしかやめようとしていた。

空前のバンドブームもあって、友達はみんなバンドをやり始めていた。巷では、ホコ天バンド(歩行者天国バンド)や、イカ天(イカすバンド天国)などという言葉が飛び交っていた。ある時、僕も誘われた。「小川もバンドやろうぜっ」て。山田はクラスで一番目立つやつで、中学からバンドを組んでボーカルをやっていた。そして、彼は人気者だった。僕は、その日の帰りにアルバイトを休んで、駅前にある松木屋という楽器屋にギターを見にいった。音楽は大の苦手でリコーダーすらまともに吹けないのにだ。黒いヤマハのギターとアンプ、そしてチューナーからピックまで一通りがセットになってる初心者セットが7万8千円だった。黒いギターはすごくかっこよかった。店員の一人が、それはストラトキャスターっていうタイプなんだよ、って教えてくれた。店員は、ロン毛で痩せていて、いかにもロックミュージシャンって感じの30代後半くらいのおじさんだった。そして、僕にはそれを買うだけの貯金があった。

ギターが頭から離れなかった。家に帰ると、僕は恐る恐る母に話した。
「友達がバンドやろうって…。ギター欲しいんやけど貯金おろしていい?」
母は驚いたように、「えっ、ともひろ、音楽なんか苦手やろ。通知表2やよ、あんた」とケラケラ笑った。
「いいよ。これは、ともひろのお金やから好きに使えばいい」と、母はタンスから通帳とハンコを出して僕に渡した。
「ともひろ、もう16やろ。もう自分で持ってなさい」
”やったー!” 僕は、心の中で叫んだ。その瞬間、目が見開き口元がにやけたのが母にはバレたと思う。翌日にはヤマハの黒いギターのセットを買っていた。

この時のドキドキは今でも覚えている。初めて一人で銀行に行ってお金おろして、初めて一万円札を何枚も払った、あの時のことを。そして、一万円札が手から離れた時に、なぜか罪悪感のような灰色の不安が心の中に丸く潜んでいたことも。
”これは自分で働いたお金で買ったんだ。だから使っていいんだ”
そう言い聞かせて、心の中の罪悪感を追い払った。
「家までお届けしますよ」あのロン毛の店員は、笑顔でとても優しい口調だった。体も細いが目も細かった。
「いえ、このまま持って帰ります」と、僕は、威勢良く言ったものの、自転車でギターとアンプを背負って10km以上離れた家まで帰るのは明らかに無理がある。
「じゃあ、ギターだけ持って帰ったらいいよ。肩がけのケースに入れてあげるから。あとは明日、学校が終わる頃までに家まで持って行っておいてあげるよ」
ロン毛の店員は、明日まで待てないと言わんばかりのそわそわしてる僕の気持ちを汲んでそう提案してくれた。どうせ、アンプを持って帰ってもすぐに音など出せないに決まってる。ギターを眺めるだけで今日一日は終わるだろうから、このロン毛店員の提案がベストだった。ケースに入れたギターを肩にかけて、僕は自転車乗る。なんだか、ギターリストっぽいなと、まだ全く弾けもしないのに帰りの道中はウキウキで、ペダルも軽やかだった。

僕は、ギターにのめり込んだ。毎日毎日、ギターの練習をした。山田とバンドを組んで、スタジオを借りて練習もした。そして、一丁前にステージにも立った。ステージといっても楽器屋が主催する中高生の発表会のようなものだったが、僕らはそれをライブと呼んで誇らしげに演奏した。思いっきり下手くそだったけど、そんなのおかまいなしで楽しかった。もう、アルバイトに行くのがめんどくさくなった。みんなでバンドやってる時が一番楽しかった。

アルバイト先の魚河岸のおっちゃんに、「小川くん、最近あんまり来なくなったねえ。彼女でも出来たんか」とからかわれ、僕は大きく手を降って否定したが、「ほれ、お祝いや。カツ丼おごったる」と、まだ早朝の6時なのに、市場にある食堂でカツ丼をおごってもらった。
夜のマット交換のアルバイトも、部活が忙しいからと言う理由で、週に1回しか行かなくなった。もちろん、部活なんて嘘だった。一応、バドミントン部に所属はしていたが完全に幽霊部員だった。
そのうちに、調子に乗って、ティーンズミュージックフェスティバルとか、バンドエクスプロージョン、とかいう、言わば学生アマチュアバンドのコンクールにも出演した。ギター始めて数ヶ月で、コンクールで賞をとるなんてあり得ない。なんせ僕は楽譜すら読めない。でも、僕以外のバンド仲間は本気で賞をとると意気込んでいた。賞どころか、優勝を目指す勢いだった。僕は必死に練習した。みんなの足手まといになりたくなかった。下手だったから、せめて、もっといい音のなるギターが欲しいと思った。エフェクター(ギターの音色を自在に変える機械)も欲しかった。貯金を全部、バンドのために、ギターのために使い果たした。

そして奇跡が起きた。ティーンズミュージックフェスティバルの地区大会で優勝した。別のコンクールでは、中部大会まで勝ち進み、名古屋まで行った。ゲスト出演だった、LUNA SEAやリンドバーグにも会えた。ただ、僕はバンドにとって重要な存在ではなかった。そんなことは分かっていた。むっちゃギターの上手いリードギターがこのバンドにいる。僕はサイドギターとしてコードを繰り返し弾いていただけだ。しかも、本番はビビって、ギターの音量をしぼった。いや、もしかして音を消していたかもしれない。僕が間違ったら、みんなの努力が泡になる。そんなのは絶対に嫌だったから。

結果は10バンド中、3位。みんな悔しそうに目頭を真っ赤にしていた。僕にとっては十分過ぎる結果だったけど、みんなはもっと上を目指していた。こんな熱い奴らが、なんで僕なんかをバンドメンバーに誘ったのか。山田に聞いたことがある。なぜ俺を、こんな初心者の俺をバンドに入れたのかと。山田は真剣に答えた。
「あたりまえやろ。上手いとか下手とか関係ない。俺は一緒にやりたいやつとやるだけや。小川は俺らの大事な仲間や。一緒に上を目指そうぜ」
まさに、THE・青春だった。


僕は毎日のように松木屋に通うようになった。ギターを届けてくれたあのロン毛の定員と仲良くなったし、他のバンドの友達もたくさん出来た。ロン毛の店員の名は、チャーリー細田と言う。体も細いし目も細い。そして名前も細い。
チャーリーと言うが、外人でもハーフでもなんでもない。ロン毛と言うだけで、普通の日本人だ。チャーリーというのは、言わば芸名みたいなもの。大人のバンドマンは、こういう芸名みたいな名前を持っている人が多かった。
どう見ても日本人なのにチャーリーと名乗る者もいれば、どう見ても外国人なのにタロウと言う名の本当のハーフもいた。彼は、モデルで有名な、あの道端三姉妹の兄で、お父さんがジャズミュージシャンらしく、ドラムを習いに来ていた。タロウとは、松木屋でよく遊んだもんだ。妹は、カレンとかジェシカとかアンジェリカとか言うアメリカンな名前なのに、なぜ兄だけタロウなのか。本人に聞いたことがあるけど、どうやら本人も分からないらしい。僕より三つほど年が下のタロウは、僕のことをアニキと呼んだが、全くしっくりこなかった。なんかチンピラみたいじゃないか。たまにグラサンかけたお母さんも来ていたが、当時から圧倒的な存在感を漂わせていた。タロウは、「アニキと一緒の高校へ行くぜ!」とか言ってたが、本当に、僕と同じ高校に入学した。あの顔で英語は赤点だと言っていたが、福井弁は巧みに操っていた。

バンド仲間で同じ高校の二つ下の子がプロになると言って入学早々、高校を中退した。SHOW-YAのコピーバンドのヴォーカルをやっていたが、抜群にうまかった。何かのコンクールでスカウトされたらしい。彼女は数ヶ月後にデビューを果たした。そしてCDも出した。
他にも、卒業したらプロを目指して東京へ行くやつや、海外に音楽留学すると言うやつまでいた。松木屋にはいろんなところからバンドマンが集まり、おかげで、高校を超えてたくさんの友達が出来た。高校生だけでなく、チャーリー細田のように大人のバンドマンともたくさん知り会えた。そして、駅前の松木屋に放課後にみんな集まって、毎日のように夜まで喋った。松木屋の上はマクドナルドだったから、そこでみんなでハンバーガーをよく食べたもんだ。音楽を通じて、なんて言うと、僕が音楽に長けてるように聞こえるが、でもやっぱり音楽を通じて出会った仲間たちだった。そして、その中の一人の女の子と付き合うことになった。彼女は二つ年下のベーシストだった。幸せの絶頂とはこう言うことなんだなと、はじめて幸せと言う言葉を身に染みて感じていた。

いつの間にか、僕は料理から遠ざかっていった。もちろん、音楽の道に進む気なんて1mmもなかったが、料理のことも考えなくなっていた。ただただ松木屋で、仲間といることが楽しかった。8冊もある荒田西洋料理は、ギターの練習の邪魔になりダンボールに入れて押入れにしまった。父がくれた砥石もとっくに乾いていた。
家に帰ると、父は相変わらず疲れているようだった。昔怪我した左足と、腰が痛むらしく、母が毎日のようにマッサージをしている。そんな姿を横目に見て、僕はさっさと2階に上がり、いつまでも下手くそなギターの練習に励んだ。

つづく