第二章-8 学校やめるわ

「俺、学校やめるわ」
ベースをぶら下げたまま坂口が突然の告白をした。その衝撃的な言葉とは裏腹にとても爽やかな笑顔だった。
「えっ、ど、どうしたんだよ?」
真っ先にボーカルの山田が驚いて振り向いた。その声はボーカルマイクを通してエコーとともにスタジオ中に鳴り響いた。他のメンバーも一斉に坂口に目を向け、一瞬にしてギャンギャンうるさかったスタジオが、それこそ「シーン」という音とともに静まり返った。坂口の言っていることを誰もが理解出来ないまま、彼を見る八つの目は大きく丸く見開いたままだ。
それは、来月に行われる松木屋主催のライブに向けてのスタジオ練習初日のことだった。各々が自分の楽器をアンプやマイクにつなぎ電源を入れ、所定の位置について音を出し始めた矢先の出来事で不意をつかれた。

坂口はクラスで一番のイケメンで、外を一緒に歩いていると他校の女子生徒から声をかけられるくらいだ。さらに成績も優秀。噂だが高校入試はトップだったらしい。神様は天に二物を与えるのだ。そんなやつが…だ。彼は、あまり誰ともつるまない、いわば一匹狼のような気質もある。とはいえ、付き合いが悪いかといえばそうでもなく、こうして一緒にバンドもやっているのだから、人嫌いでももなさそうだ。一人でいるのが好きなようだが、誘うとついてくる。冷たくはないが、情に厚い、と言うことは無い。「孤独」ではないが、社交的とは言い難い。まあ、つかみどころのない性格だ。

「だって、高校なんて行ってても意味ないじゃん。面白くねえし」
言ってることは、矢沢永吉よろしくロックンローラーだったが、その笑顔はジャニーズ並みのアイドルスマイルだ。やっぱり言ってることとその爽やかな笑顔にはギャップがあるから、そう言われても戸惑ってしまう。
「ほんとにやめんのかよ?やめてどうするんや?」
戸惑いを乗り越えて、僕は聞いた。ギターが肩に掛かっていたが、告白の衝撃にその重さを感じなくなっていた。
「京都行くわ。修行だよ、修行」
坂口は寿司屋の息子だ。彼は高校を辞めて京都に板前の修行に行くのだと言う。彼はお姉さんとの二人姉弟だったから、長男である彼が寿司屋を継ぐのだろう。その言葉は僕の胸をチクっと刺した。
「バンドはどうすんだよ!」
山田が再びマイクで叫んだ。
「悪りい、今度のライブで俺、やめるわ」
坂口左手でベースのネックを握ったまま、親指と人差し指でピックを持ったまま顔の前に手のひらを垂直に立て謝るように言った。
「おい、まじかよ!」
間髪入れず山田が顔を赤くして叫ぶ。口がとんがり唾が弧を描くように遠くへ飛んだ。
「まあ、まあ、まあ。仕方ねえだろ、山田。怒るなよ。坂口にも事情があるんやろし」
一番後ろで4人を眺めていたドラムの平野が山田をなだめるように椅子から腰を上げて半分立ち上がる。平野は、いつもひょうひょうとしていて、根性とか努力とか、そんな暑苦しいものとは無縁なやつだ。そして平和主義で、ドラムなのに痩せている。結局、山田も「仕方ねえか」と納得したようなしないような表情のまま練習を再開することになった。
「じゃあ、坂口との最後ライブだから、セバリーレインやろうぜ!」
山田がまた叫ぶ。もう怒りは静まったようだ。彼は短気だが機嫌が直るのも早い。そして彼はマイクを持つと、まるでライブのMCかの如く叫ぶように出来ているようだ。おでこが広く、ライトに照らされ光ってる。

ちなみにこのセバリーレインとは僕らのバンドの唯一のオリジナル曲。山田の提案で、山田の作詞で、タイトルも山田が決めた、山田のための曲のようなもの。歌詞からして失恋の曲っぽかったがタイトルの意味は分からないままだ。2週間ほど前の土曜の夜、坂口の家にみんな泊まって徹夜で完成させた。作曲は山田の鼻歌で作った。いや、すでにほぼ出来てたと言っていい。それに合わせてコードをつけただけだが、どう聞いても山田の大好きなBOØWYのBEEBLUEにしか聞こえない。みんなも薄々、いや、きっとはっきりとそう思っていたに違いない。

その、作曲というか、鼻歌の最中、夜中の1時を過ぎた頃だっただろうか、坂口のお姉さんが「夜中にうるさい!」と。襖を開けて部屋に怒鳴り込んできた。坂口がイケメンだけあって、お姉さんも相当な美人だ。肌が透き通るように白く、目がぱっちりとしていて、髪は艶のあるストレートで、スタイルも抜群だった。多感な高校男子4人は、もちろん弟である坂口以外が、彼のお姉さんの美貌に目を奪われ、時が止まったかのように彼女に釘付けになった。まるで魔法にかかったかのように僕らは石と化したのだ。
「おいおいおい、なんだよ、姉ちゃん美人じゃねえか」
お姉さんが部屋から出て行くと、平野は自力で魔法を解き、身を乗り出して坂口に迫った。それを合図に僕ら時間も動き出した。唯一、魔法にかからなかった坂口は「へっ、あんなくそ女」と、まるで魔女に向かって吐き捨てるかのように罵った。

これ以上頑張っても、これ以上にはならないと、BEEBLUEのパクリ同然のまま、明け方5時ごろ、半分諦めたようにこの曲は完成だということにした。
「いいじゃん、これ!かっけえ」と自画自賛していたのはもちろん山田だ。
「いやいや、これパクリっぽくね?」
僕は山田に苦笑いを見せたが、彼は動じなかった。それどころか、「俺が作詞作曲したんだから印税はおれんのだよな。売れたらどうしよ。やべえな」などと一人で騒いだ。そんな簡単に売れて印税が入ってくるなら世の中のミュージシャンはアルバイトなんかしなくても生活できるはずだ。みんなでケラケラと山田を笑ったが、その笑いに力はなく、そろそろ限界にきた。10分もしないうちに、睡魔が僕らの目蓋を撫でるように閉じる。誰も抵抗しないまま夢の中に沈んでいった。

翌日のお昼頃、坂口のお母さんがお寿司と熱々のお茶を持ってきてくれた。
「お腹空いたやろ。お寿司食べていきなさいね」
「あ、ありがとうございます」
寝ぼけながら山田が真っ先にお礼を言う。山田は反骨精神の塊だが礼儀は人一倍正しかった。山田の声が遠くに聞こえ、僕はもがくように意識の海の底から水面に顔を出した。次に常脇が、そして平野が起きてきて、坂口は全く起きる気配がなかった。いつでも寿司が食べれるであろう坂口は放っておいて、僕らは目の前のご馳走にがっついた。これがセバリーレインの誕生秘話だ。

山田の独断と偏見で坂口との最後のライブの曲はこのセバリーレインをやることに決まったのだが、誰もが不安を感じた。
「えっ、まじであの曲やるんかよ。大丈夫か?」
特に、サックスの常脇が不安そうな顔をする。常脇は平野と同じくブラスバンド部で、チェッカーズの藤井尚之と同じモデルだと言う自慢のテナーサックスを首からぶら下げている。このサックスは40万円もしたらしい。一人息子だから親が甘やかしたのだろう。彼は非常に慎重な男なのだが世間を斜めに見ている節がある。髪の毛が薄いせいか一番老けて見えたし、体格から言ってサックスと言うよりドラムと言う感じだ。そして一見、アキバにいそうな風貌だ。

ライブは、5つの高校生バンドが出場し、演奏の良し悪しは置いといて結構盛り上がった。これもライブを仕切ってくれたチャーリー細田と音響の木田さんの努力の賜物だろう。彼らは学生のバンドを応援してくれていた。チャーリーは学生から人気があったし、木田さんは無口で職人気質だ。僕はその時、ライブの出演者より、ライブをテキパキ仕切る彼らに興味を持った。
そして、このライブの後、坂口は学校に姿を見せなくなった。
「あいつ、まじで学校やめたんだな」
山田が目で僕に言った。僕は軽くうなずく。
坂口と仲の良かった数名の男子生徒が担任の筧先生に呼ばれた。もちろん、僕と山田も呼び出された。
「坂口に何があったんだ。知ってることがあったら教えてくれ」
誰もが恐れるあの筧先生が、眉を八の字にして困っている。坂口は家の事情で学校をやめるしかなかったのだと思っていたがそうではないらしい。
「京都に修行に行くと言ってたので、家の都合でやめるのだと思ってました」
筧先生は、「そうか」と落胆の表情を浮かべ、「坂口をなんとか引き止めてくれないか。高校だけは卒業しろと」低い声で僕らに頼んだ。

筧先生に呼ばれたその日の放課後、僕と山田は坂口の家に自転車を走らせた。玄関でお母さんが懇願するように僕らを見つめた。
「山田くん、小川くん、来てくれてありがとう。お願い。高校だけは卒業してもらいたいんや」
山田は、「は、はい」と、か細い声で答え、その声は少し震えていた。僕は声も出さずに頷くように下を見ただけだった。坂口を説得する自信などなかったからだ。結局、僕と山田は、またもやお寿司をご馳走になって彼の家を後にした。状況は何一つ変わらなかった。坂口は自分の意思で学校を辞めた。不良が単に、やってらんねえ、とか言って、その場の勢いでやめるのとはわけがちがう。彼には強い意思があったのだ。学生と言う、ただでさえ期間限定の楽園を自ら放棄する覚悟があったのだ。いつだったか、誰だったか、大人が言っていたことがある。
「社会に出たらそこは砂漠だ」と。
「なあ、坂口。おまえはもう砂漠に出る準備が出来たというのか」
僕は帰り際に坂口の目を見て、そう思ったが言葉には出さなかった。そして、ふと不安が過ぎる。僕はこのままでいいのだろうか。今が楽しければそれでいいのだろうか。やるべきことがあるのではないだろうか。陽が落ちて暗くなりはじめた藍色の空の下、自転車を漕ぎながら僕は山田に聞いた。「なあ、俺ら、このままでいいんかなあ」
山田はまっすぐ前を見たままだった。
「当たり前やろ。坂口がいなくなっても俺らは変わらん」
「そやな」
僕はつぶやくように、素っ気なく声に出した。バンドの将来を聞いたつもりはなかったが、山田の頭の中はバンドしかなかった。路面電車が僕らを追い抜いていく姿を見て、何かに置いていかれるような気がした。

つづく