第三章-5 思わぬ行動

”箱根オーベルジュ・オーミラドー オーナーシェフ勝又登氏” 黒板の右端に縦書きでそう書かれている。

今日は外来講師の授業の日だ。 箱根というところにもちろん行ったことはないので山の方くらいのイメージしかなく、避暑地的なところかなと思っていた。僕には全く縁のなさそうな場所だし、オーベルジュっていうのがなんなのかもよく分かっていなかった。 外来講師の授業は放課後にある。課外授業的なものだった。だからなのか、それこそ入学間もない頃は教室にいっぱいだった生徒も残暑が和らぐ頃には半分ほどに減っていた。 僕は高い授業料払っているのにもったいないという理由と、有名店のシェフの料理をそこで働いていなくとも学べるチャンスなので一度も逃さず受けると決めていた。 授業で習う規則正しい”正統派”の料理とは違って、一流シェフの作る料理には、料理で何かを表現するという個性がむき出しのアートのような鋭い香りが漂っている。正直なところ、レシピを聞いてもレベルが高すぎて何がどうなっているのか分からないことが多いが、目の前でその料理が作られていく様を見ているだけで一流の世界に触れた気分になれるからこの授業は好きだ。それだけでも受ける価値はあると思う。

今日の講師である勝又シェフの目は今までのシェフに比べその視線は鋭く、空気の冷たく切り裂く刃の様でもある。僕は身震いした。 彼がスプーンをまるで画家の筆のように扱い皿の上で滑らせると絵の具のように美しい色のソースが繊細に、それでいて大胆な線を描く。調理された肉や魚や野菜がその上に置かれると、それはもう食べ物という域を超えている気がした。まさにお皿と料理が一体となりそれ自体がアートのようだった。

僕は目を奪われた。 勝又シェフの作る料理は料理というものを超えている気がした。もはや僕には美味しいのかどうかも分からない。ただただ美しく次元の違うものだった。

授業が終わり、勝又シェフが教室を出た瞬間、信田先生が僕のところへ駆け寄ってきた。 そして、顔を近づけると「小川、お前さ、すぐに勝又シェフ追っかけてオーミラドーで働かせてくださいって行ってこい」と小声で言った。
隣に座っているトメちゃんと村田はキョトンとしている。 そして僕は耳を疑った。 いやいや、もう内定もらってるし、箱根ってどこなのかも分からないし、そんなこと急に言われても困る。と心の中で叫んだが声にはなっていない。 突然のお告げに僕の表情は固まったままになっている。 それでもなお、先生は「早く行け!」と急かす。 小心者の僕はその言葉にビクリと反応し、思考がフリーズしたまま、慌てて勝又シェフを追いかけた。

階段降りて一つ目の踊り場で追いつき、「あ、あの…」と呼びかけると勝又シェフは立ち止まって振り向いた。同時に付き添いの主任教授も振り向いた。 踊り場から三段上の階段に僕はいる。 「ん?どうした?」 主任教授の方が先に僕に聞いた。 勝又シェフは黙ったままゆっくりと僕を見る。 その鋭い目が僕を突き刺し、僕は踊り場まで降りなきゃと思ったが足の力が抜けて動けなかった。 それでも大きく肩で息を吸って、力を振り絞ってそれを吐く。 「あ、あの、オーミラドーで働かせてください」 堅い沈黙がその場を包む。僕は堅く締まったこの空気に縛られていたように感じた。
「君の名前は」 勝又シェフの声は落ち着いていてそして重い。 「小川と言います」 すんなりと言葉が出たことに僕は驚いた。でも足はまだ震えていて力が入らない。 「明日も第二校舎で授業があるから、それが終わったころ、教室に来なさい」 そう言って、勝又シェフは階段を降りていった。 その後を追うように主任教授も階段を降りていく。
いつの間にか僕は右手で手すりを掴んでいた。その手が汗をかきヌルッとした感触が神経を伝わって脳に辿り着いた瞬間、僕はハッと我に返った。 一体何が起こったのだろうか。

そのまま信田先生のところに戻り、それでどうすればいいのか聞いた。
「小川はミラドーに行った方がいい」
なんの根拠もないがそう思うのだと、信田先生の目が真剣にそう語った。
隣にいたトメちゃんと村田は目を点にしたまま事の成り行きをただただ眺めていた。この日はバイトが休みだったので3人で帰ったのだが、トメちゃんが「オーミラドーはやばいって言う噂だよ。地獄だって。すんごい厳しいよ、きっと。」「小川ちゃん死んじゃうんじゃない」と半分からかうように僕を脅す。 トメちゃんはクラスで一番の情報通なのだ。どこで仕入れてくるのか知らないがレストラン事情をなぜかよく知っている。 村田は人ごとだと思ってケラケラと笑っている。

僕は超不安になった。 なんでこんなことになったんだろう。ノブちゃんのせいだ。 でも、有名店だからそう簡単には入れないだろう。きっと断られるに決まってる。そうだよ、絶対に断られるに決まってる。 僕は呪文を唱えるように自分にそう言い聞かせた。 断るのではなく、断られることを願うその根性がそもそも弱虫根性なのだが、僕はそういう性格なのだ。

つづく