第二章-6 夢と未来の詰まった白い封筒

とりあえず資料を取り寄せてみよう。このまま何もせずにはいられなかった。いったい、料理学校っていくらかかるんだろう。

今なら家に誰もいない。両親はまだ仕事から帰ってきていない。弟は友達と遊びに行った。祖母は近所におしゃべりに行ったまま。今しかない。分厚い電話帳を広げ、大阪あべの辻調理師専門学校の電話番号を調べた。まだスマホなんて無い時代だったから、家に一台しかない固定電話からかけるしかなかった。
「ありがとうございます。辻調理師専門学校でございます」まるでアナウンサーのような綺麗な発音が受話器の向こうから聞こえてきた。女性の声だった。
「あ、あの、、あの、えっと、資料が欲しいんですが」
緊張して頭が真っ白になりながら、かろうじて言葉を絞り出した。福井弁は訛りが強い。
「ありがとうございます。お名前とご住所、お電話番号をお願いいたします」
テレビでいつも聞いているはずの標準語だが、こうして直接の会話すると、すごく違和感がある。僕も標準語で話そうと思ったが、しどろもどろになり、もっとおかしなイントネーションになった。生まれてからずっと福井弁なのだから、そんな急に標準語など話せるわけがない。でも、最初のミッションはなんとかクリアした。あとは資料が届くのを待つばかり。

マット交換のアルバイトを終えて夜9時半ごろに帰宅すると、いつものように母は夜ご飯を用意して待っていてくれた。父は食事を終え、顔を真っ赤にしてテレビを見ていた。すでにお猪口は空になっていた。
「はい、これ。あんたに届いてたざ」
母が重たそうな封筒を僕に差し出した。暑さ1センチほどある白い封筒にデカデカと、大阪あべの辻調理師専門学校、と印刷してある。電話をしてから一週間もしないうちに資料は届いた。
「あっ」思わずその封筒の文字を見て声が出た。うかつだった。こっそり電話して資料請求しても、母が受け取ったんじゃ意味がない。僕は観念した。
「ともひろ、ここ行きたいんか?」
母が真面目な顔で僕に聞いた。
「う、うん…、まあ一応。だってここはフランス料理習えるから」
父は僕をちらっと見たが何も言わなかった。僕は少しためらい気味に父の隣に座った。この時間に夜ご飯を食べるときはテーブルではなく、畳の上のちゃぶ台で父と一緒に食べることになっている。少し気まずかった。

目の前に山盛りに盛られたご飯と大きなハンバーグが出された。目玉焼きものってる。お腹はペコペコで、ご飯のお代わりを2回もした。それでもあっという間に食べ終えた。そして最後にお茶を一気に飲み干した。すかさず、白い封筒を手に取り封を開けた。ちょっと気が焦っていたかもしれない。その封筒は、少し乱暴に開けられた。
封筒には、売れるんじゃないかと思うくらい立派な、本のようなパンフレットが入っていた。ページをめくると、真っ白なコックコートを着た少年少女がギラギラした目で料理を学んでいる授業風景や、とびっきりの笑顔で学校生活を楽しんでいる写真でいっぱいだった。みんなものすごく生き生きとしている。見れば見るほどここへ絶対に行きたくなった。さらに、そこで自分が勉強している様子まで妄想した。
「いつもテレビでやってるあの学校やろ?」
父が不意に話しかけてきて現実に引き戻された。僕は、うん、とだけ答えた。
パンフレットとは別にA4サイズの紙が何枚か挟んであった。その一枚に”学費について”とある。いくつもの学科があり、学費もそれぞれ学科によって違うようだった。僕は恐る恐るその数字を見た。入学金、授業力、教材費…

僕は息をのんだ。それらを全て足すとざっと120万円を超えている。
無理だ、いくらなんでも…。あまりにも高すぎる。
一瞬で絶望感が僕の体全体を鉛のようにずっしりと重く硬めた。息をするのも忘れた。
僕は軽くため息をつき、顔をあげた。
「ちょっと高すぎるわ。これは無理や。卒業したらどっか福井のレストランで働こっかな」
両親にがっかりしたことを気づかれないように必死に笑顔を作ろうとした。神経を口元に集中して口角を押し上げた。そして、夢と未来を白い封筒にしまった。
母が、いくらするんや?と聞いてきた。
「えっと、入学金とか授業料とかあって合わせて1年で120万円ちょっとだって。こんなん無理やわ」母は、その金額に驚いたようだったが、僕の目をずっと見ていた。僕は母の目を見られなかった。笑顔のつもりだったが、泣き顔だったかもしれない。下を向いてごまかした。
「ともひろ、そこ行きたいんやろ?」
母の声は優しかった。多分、微笑んでいたのだと思う。
「一応資料請求してみただけ。料理人なるんやったら一日でも早く働いた方がいいって。俺、勉強嫌いやし」僕は慌てて言い訳をした。資料を取り寄せたことを後悔した。

「ともひろ」
父が僕の名前を呼んだ。ドキッとした。そして、そおっと父の方に振り返った。
「その学校に行け。大阪に行ってこい」
父の声は力強かった。
「えっ?」
意外だった。
「フランス料理やりたいんやろ?だったら福井にいたらあかん。都会に行け。お金のことは心配いらん」
そういうと、父は立ち上がり、”もう寝るわ”と行って布団に入った。
急に涙が溢れてきた。嬉しくて、嬉しくて、本当に嬉しくて。そんな自分が、かっこ悪いと思った。感情がジェットコースターのように急降下したと思ったら、今度は一気に雲の上まで引っ張られたようで、自分ではコントロール出来なかった。僕は必死に自力で感情を抑えようとした。そして、母に、”僕の貯金、今、いくらある?”と聞いた。声が震えた。僕は、お年玉とアルバイトのお金を母に貯金してもらっていた。母は、僕名義の銀行口座を作ってくれ、そこにお金を入れてくれていた。「10万2千円あるわ。ともひろ、お金持ちやね」
母はタンスの引き出しから通帳を取り出し、クスッと笑った。
あと2年でいくら貯められるだろうか。せめて学費の半分くらいは貯められないだろうか、と考えた。

つづく