第二章-5 大人の世界へ

アルバイトはその後も自然に舞い込んできた。親方の手伝いもたまにしつつ、近所の土建会社の社長からも声がかかった。きっと親方から聞いたのだろう。駐車場の白線引きから工事中の旗振り、引越しの手伝いなど、料理とは関係ない仕事ばかりだったが仕事はあふれていた。

中三の夏休みには親方率いる大工職人と一緒に家を一軒建てた。みるみるうちに家が建っていく様を大人に混ざって目の当たりにし、まるで自分が建てたかのように愛着まで湧いた。だが実際は、僕に与えられた仕事といえば、カナヅチやノコギリを大工たちに渡すこと、地面に落ちた釘を拾うこと、そしてメジャーの端を持ってることくらいだった。

「おい、兄ちゃんよ、この木をまっすぐに切ってくれ」
不意に、髭を生やした大工からノコギリを渡された。まだ壁はないにしろ、すでに何本も立っている柱がその家の間取りを示していた。家の骨組みはほぼ完成していたのだ。
”えっ”
驚いたが、なんだか嬉しかった。大工の仲間に入れてもらえた気がした。角材をまっすぐに切ることくらいは簡単だと思った。僕は、いつも大工たちがやってるように、左足で角材を固定し、両手でノコギリをしっかり握りしめ、勢いよく前後に動かした。一片が10cmくらいある角材をまっすぐに切る、ただそれだけだった。全然ノコギリの刃は進まない…。
悪戦苦闘の末、角材はやっと二つに別れた。30分以上格闘した。髭の大工は大きな口を開けて笑った。「まあ、上出来や。はじめはそんなもんや」角材の切り口は大きく斜めに傾いていた。
3分の1ほど切った時点で斜めに進んでいることに気が付いた。だが、軌道修正は無理だった。髭の大工は、戸惑う僕にむかってニヤケながら、いいからそのまま最後まで切り離してしまえと言ったのだ。僕は自分の無力さを思い知った。でも、こうして大人に混ざって働くことで自分も大人になっていく感じがしていた。不思議にも充実感があった。大工職人たちとの夏はギラギラと暑く安心感があった。
この夏休みのアルバイトは平日の8時から17時までだったが、毎日、母は弁当を作ってくれた。今思うと母も大変だったと思う。


高校へは進学することにした。中学を卒業したら、父のように丁稚に行くことも考えたが、もはやそんな時代ではないとも思った。いくらなんでも高校くらいは出ておかないといけない、世間はそんな雰囲気だったからだ。大阪の料理学校へ行くこともずっと考えていたが結局言い出せなかった。
特に成績がいい方ではなかったので僕が行ける高校は限られている。それなのに中三の夏休みは受験勉強もせずに親方たちと家を建てていた。両親はそんな僕に、勉強しろとも、いい高校へ行けとも、そんなことは一言も言わなかった。ただ、私立はお金がかかるから、高校行くなら公立へ行けとは言われていた。僕が高校受験に能天気だったのはこうした家庭環境のせいもあったのかもしれない。

僕は、自分の身の丈にあってそうな公立の高校の中から、福井市内にある福井商業高等学校を選んだ。通称「福商(ふくしょう)」と呼ばれ、当時、高校野球では甲子園の常連校だった。最近、チアダンス部のJETSが全米チャンピオンになり「チアダン」というタイトルで映画化やドラマ化され、ちょっとだけ有名になった、あの高校だ。
そして、この高校は、卒業後は進学を目指すのではなく、就職を想定しているので女子の方が断然多かった。男子2割、女子8割ほどで、その2割しかいない男子も、甲子園常連校である野球部に入部するために来ている者がほとんどだ。僕のように、野球には縁のない、ただ単に大学に行くつもりないというだけの男子生徒は数少ない。僕は毎朝、家から高校まで10kmほどの道のりを40分かけて自転車で通った。

夏休み直前、小さい頃からよく可愛がってくれていた親戚のお兄さんからもアルバイトを頼まれた。お兄さんと言っても30を過ぎていたが、僕は子供の頃から、彼のことをひろみ兄ちゃんと呼んで慕っていて大好きだった。彼は、20代の頃から、とにかくかっこよくて速そうなスポーツカーや外車ばかり乗り回していたが、そのどれもが中古らしく年季の入ったものばかりだった。若かったからお金もなく、多分無理して乗っていたのだと思う。無理してでも自分のポリシーを貫く姿勢が僕は好きだったのだ。よく車でドライブにも連れて行ってくれた。知らない女の人が一緒だったことも度々あった。ふらふらしてるとかチャラチャラしてるとか、特に親戚の年寄り組からは評判が悪く、いつもガミガミ言われていたが、彼は全く聞く耳持たず我が道を行くタイプで、その図太さも僕は好きだった。そして彼は30そこそこで会社を作った。彼が社長になった頃から、周りは何も言わなくなったみたいだ。

彼の会社のアルバイトとは、学校が終わってからの17時から21時まで、片町という繁華街の飲み屋の玄関マットやモップ交換の助手だ。バンの車に玄関マットやモップをたんまり積んで、彼の会社の唯一の社員である丸顔にメガネの若い兄ちゃんと一緒に、主にスナックを周る。飲み屋のお姉さんには、僕は大学生だと嘘を付いていた。
この仕事で厄介なのは集金業務だった。月の終わり頃から、一週間ほどかけて60件ほどの飲み屋を集金に周るのだが、あからさまに嫌な顔をされるか、”ママはいないわよ”とそっけない一言で僕を追い返そうとする。2、3回通ってやっと払ってくれたと思ったら勝手に端数を切り捨ててくる。「はい、これ以上一円もないからねっ」ピシャリと言いすてる年上の女の鋭い言葉にいつも怯んでしまう。
一円単位ならまだいいが、中には百円単位を切り捨ててくる強者までいる。社長から与えられた僕の権限は一円単位の端数切り捨てまで。なんとか、この戦いに打ち勝たねばならない。だが、戦い慣れた夜の女たちは、獣のように豹変して集金袋を威嚇するのだから、高一の僕が太刀打ちできるわけがない。そんな時はメガネの兄ちゃんが「仕方ねえなあ」とめんどくさそうに僕と選手交代をするのだ。タバコと酒と香水の入り混じった夜の街の匂いが僕を不安にさせた。それは、限りなく黒に近い紫と真紅色が入り交ざったような夜の女の世界だった。

秋も深まり冬が目の前までやってきた頃、父から市場でのアルバイトの話があった。
「ともひろ、市場の丸魚でアルバイトせいや?料理人になるんなら魚河岸は勉強になる」
僕は、この話に飛びついた。料理の世界に少しでも近づける。そう思ったからだ。それに、この中央卸売市場は家から学校に行くちょうど通り道にあった。
ただ、北陸の冬は厳しい。1m以上積もった雪の中を自転車で走るのは、寒いというより痛かった。タイヤが滑って思うように前に進まないし、家を出てすぐに九頭竜川を渡らねばならなかった。福井で一番大きな川だ。これを渡るには福井大橋という、その名の通り大きなアーチに挑まないといけない。橋の上では、遮られることなく吹き荒れる雪風が容赦無く真横から僕と自転車を突き抜ける。寒さで頬は真っ赤にかじかみ、目には今にも凍りつきそうな涙の玉でいっぱいになる。母に渡された真っ赤な手編みのマフラーをするのはかっこ悪かったが、この寒さだ、やむを得ない。真っ赤なマフラーは異様に目立つし女の子みたいだ。なぜ、黒っぽい目立たない色にしてくれなかったのかと母親を責めたが、母は、車からも見えるよう目立つ色じゃないと危ないからと無理やり僕の首にマフラーを巻いた。僕が言いたいのは、赤いのはかっこ悪いということだったが、母は全く聞く耳を持たなかった。

学校が始まる前の、朝4時半から7時半までの三時間、毎朝のように僕はこうして市場の魚河岸でアルバイトをした。日の出前の薄暗い市場は、大人たちの威勢のいい声で活気付いてた。
「にいちゃんよう、もっと声出さんと聞こえんで」
ずしんと響く低いかすれた声で、よく注意された。こんな朝早くから声なんて出ないよ、そう思いながらも目一杯腹に力を込めた。魚河岸で働く大人たちの声は、大工職人のそれより一段低かった。
競りが始まると、大きなダミ声があたりの空気を支配する。市場は薄暗い空の色とは真逆の、活気ある空気で満ちていた。僕の仕事は、競り落とされた魚を配達の車まで運ぶこと。
ふと目を離した瞬間にタコが発砲スチロールの箱の中から逃げ出したことがある。彼なりに精一杯速く、必死に足を伸ばして。だが、動きが遅すぎた。番号札のついた帽子を被っている四角い顔のおじさんに、手鈎(てかき)と呼ばれる、フック状の爪のようなものがついた棒で一瞬にして箱の中に戻された。結局、そのタコは、体の半分も箱から出すことも叶わなかった。僕は、目の前のタコの儚い人生を感慨深く、その一部始終を見守った。逃げだせたとしてもどこに行くつもりなのだろう。
日の出前の魚河岸は、薄暗いもやの中で地響きのようにうごめいていた。それはエネルギーに満ち溢れ、清々しさと力強さが共鳴していた。

こうして、毎朝のように学校の前の4時半から7時半までは市場でアルバイトをし、学校が終わると週に3日、夜5時から9時ごろまで、ひろみ兄ちゃんの会社でマット交換のアルバイトをした。母は何も言わずに、朝4時には僕らの弁当を作り、夜10時ごろ僕がアルバイトから帰ってきてもあったかい晩御飯を作って待っていてくれた。
大阪の料理学校に行くためにも、僕はお金が必要だった。親が払ってくれるか分からなかったし、そもそも払えるのかさえも怪しかったからだ。中古とはいえ、一軒家を買ったばかり。自ずと、住宅ローンも始まったばかり。おそらく料理学校にいくには何十万もかかるだろう。そんなお金、うちには無いと思った。

父が最近なんだか疲れているような気がした。お酒を飲むとすぐに寝てしまう。年のせいだろうか。

つづく