第二章-1 父の料理本

転校は、思ってたより大げさなものではなかった。気持ちはさほど揺れず、”ああ、今日で進明に通うのは最後だなぁ”くらいしか思わなかった。
5月14日。中学2年生の新学期が始まって1ヶ月とちょっと。学年が上がるごとにクラス替えがあるから、クラスメイトは入れ替わったばかりだった。小学校の時から一緒だった友達も何人かはいたが、大半は新しい顔ぶれだ。別れに涙を流すには、一緒にいた時間が足りなかった。それに、中2ともなると引っ越し先から市内まで自転車をこげば来れないこともない。大人の事情があったのだろうが、それにしても中途半端な時期の転校だった。

転校先は丸岡中学校という、この町に一つしかない中学校で家から3km以上も離れているため自転車通学となった。町と言っても、半端なくでかい町で、直線距離にしても車で30分以上走らないとこの町から出ることができない。転校初日、まずは職員室に来るよう言われていた。職員室で担任の先生を紹介され、一緒に教室に行くという段取りだ。
たくさんの黒い学生服と紺色のセーラー服が校門から玄関へと学校の中へ吸い寄せられるように入っていく。僕は強い違和感を感じた。もう手遅れだ。そんなこと聞いていない。突然、大きな不安に襲われた。

母から渡されたわら半紙には簡単な学校の見取り図が書かれていて、それを見ながら職員室を探した。流石に知らない中学校に入ると、緊張感が脳を支配し体を硬直させる。色も、匂いも、音も、温度までもが違う空気感に包まれ、さらに不安が体全体を包み込む。心臓が高鳴る音が指先まで伝わり、職員室の引き戸の扉を開ける手が戸惑いを見せた。その一瞬をついて内側から扉が右にスライドした。眼鏡をかけた小柄な女の先生がその扉のレールのすぐ向こうで驚いた顔をした。
「あっ、えっ、、、あ、あぁ、転校生かな?」「は、はい」「あ、そう。ちょっと待ってね」
その女の先生は後ろを振り向くや否や大きな声で「牧野先生ー、転校生の子がきましたよー」と叫び、それを合図に、職員室にいる全ての顔が僕の方を向いた。一瞬、全員の動きが止まったかのように見えた。いや、止まったのだ。

「お、おい、おまえ、髪が長いじゃないか」
すぐそこにたジャージ姿の四角い顔の男の先生が僕を睨むように言った。眉間にしわを寄せ、眉が異常な角度でつり上がっていた。
「あー、ほんとだ。小川くんだったね。お母さんから聞いてなかったの?」
奥の端の方の席から一人の背の高い男の先生が駆け寄ってくる。どうやら、この眼鏡をかけた長身の先生が担任の牧野先生らしい。「しょうがないから、今日はこのままでいいけど、明日までに髪の毛切ってこいよ」牧野先生は深いため息をついた。
僕は、「はい、すいませんでした」と言うしかなかった。進明中学校では、それこそ髪の長さに制限はあるものの、ある程度髪型は自由だった。しかし、丸岡中学校は丸刈りが校則だった。
”そんなこと聞いてなかったのに”

僕は放課後、慌てて近所の床屋を探した。アマモリという、店名も店内も、そして店主までもが、なんとも暗い感じの床屋しか近所にはなく、入るのに一瞬戸惑ったが仕方なかった。母は、引っ越しでバタバタしていてそんなことは忘れていたのだと、丸坊主頭を見てケラケラと笑った。頭が涼しくなんだか気持ち悪く恥ずかしい上に、母の無責任な笑いに腹立ちを覚え、そそくさと自分の部屋に閉じこもった。部屋の時計は午後4時を大きく過ぎ長い針は時計盤の6辺りを指していた。

新しい家は、国道8号線から少し東に入ったところにある新興住宅街にあり、赤いレンガ造りの家だった。家を建てるはずだった、以前見た空き地に比べ、その半分ほどしかない広さの小さな家だったが、それでも団地よりは随分と広かったし、小さいながらも庭もあった。
僕の部屋は2階にあった。階段を上がってすぐに左の洋間だ。窓から見える景色は、どこまでも田んぼが並び、その突き当たりに山々が堂々と連なっている広大な景色だ。初めて自分だけの部屋を持てたことが嬉しかったし、部屋の扉が襖ではなくドアだと言うだけで新鮮な感じだった。

半開きになっている押入れを開けると見覚えのないダンボールが置いてあった。
”俺の部屋の押入れなのに勝手に荷物置くなよな”
さっき丸坊主を笑われた腹いせに、些細な怒りを心の中で母にぶつけた。
”何が入ってるんやろ?”
僕は押入れの奥からそのダンボールを無造作に引っ張り出し、その中身を覗いた。かなり重たかった。ダンボールには赤みのかかった茶色いハードカバーの分厚く大きな、同じような本が何冊も入っていた。
”図鑑かな?”
まるで図鑑か辞典のような風貌の本には「荒田西洋料理」と言うタイトルが書かれていた。全部で8冊ある。全8巻と言うことらしい。父の本だろう。料理、と名のつく本に僕は興味が湧き、ページをめくった。

ブランケット・ド・ヴォー、フリカッセ・ド・ヴォライユ、シヴェ・ド・シュヴルイユ…
”なんなんだ?何かの呪文か?”
飾りのようにアルファベットが並び、その次にカタカナで読み方が書いてある。もちろん、さっぱりなんのことやら分からない。日本語訳を見ると、鹿肉のぶどう酒漬け煮込みとか書いてある。
”えっ?鹿って食べられるの?””ぶどう酒漬け煮込みって、どんな煮込み?”日本語訳があっても、どんな料理なのかまったく分からなかった。よくよく見ると最初の方に数ページだけカラーのページがあり、料理の写真がいくつか載っていた。

美しかった。これが西洋料理なのか。まるで絵画のように、皿の上に華やかに料理が描かれていた。
赤いとも黒いとも見える膨らみのあるソースが艶やかに、ステーキ肉のようなものにかかっている。寸分違わず同じ形に切り揃えられてる野菜が色とりどりに添えてある。僕が知ってるステーキとはまるで違う。一度、父が奮発してステーキハウスなるところへ連れて行ってくれたことがある。熱々の鉄板の皿の上に”ジュージュー”と音を立ててステーキが出てきた。半分に切ったじゃが芋にバターがのっていて、とうもろこしが添えてあった。にんにく醤油的なソースをかけて食べたのだが、それはそれで満足したのを覚えている。ただ、この本にある料理は次元が違う。写真では味は分からないけど、明らかにこれらの料理は全く次元の違う世界のものであることは僕にも分かった。

僕は、その料理写真を食い入るように見た。時が止まった。心が奪われた。
夕飯の支度をしていた母が下から大声で叫んだ。「ご飯できたよー!」母の甲高い声が、別次元の世界にいる僕を現実世界に一瞬で連れ戻した。どれくらいの間、この料理本を見ていたのだろう。時計の針は午後6時を12分ほど過ぎたところを指していた。窓の向こうの夕焼けが部屋を真っ赤に染めていた。

つづく