第一章-8 そして事件がおこる

僕にとって、いや弟にとっても一大事は転校しなければいけないことだった。引越し先はここからそれほど離れていないとはいえ今の小学校の校区外となり、別の小学校に転校しなければならなかった。父と母が、「子供ら転校させるのはやっぱり新学期のタイミングやろうね。」と話してるのを聞いてそのことを知った。

”そ、そうか、転校しないといけないのか…”
三年生の時、一人の女の子が他県から僕のクラスに転校して来たことを思い出す。もちろん同じ日本人だったけど、まるで外国から来た子のように不思議な感じだったのを覚えている。そう感じたのは透き通るような色白の肌の女の子だったからかもしれない。いや、色白だからだけではない、なんというか空気感が僕らとは違った。ただ、1年以上も同じクラスで共に机を並べているといつの間にか僕らと同じ匂いになる。今では彼女になんの違和感も感じない。子供というのはそういうものなのだろう。
僕は、転校することがほんの少しだけ不安だった。友達の誰にもまだ話していない。”僕が転校することを知ったらみんな驚くだろうな”転校する不安とは裏腹に、みんなが驚く顔を見るのは楽しみだとも思っていた。

ある日の朝、父が祖母に「昨日、不動産屋に土地の手付払ってきたから。」と話してたのを聞いた。「手付」という言葉は知らなかったが、「払ってきた」と言う言葉に、”お金を払ってきたんだな”と理解した。祖母は、「そっか、そっか。頑張らなあかんの。」とニコニコしていた。”いよいよ転校することが決まったな”僕はずっと転校のこと考えていた。父はあれから、店の定休日である水曜日にも出掛けるようになり日中はあまり家にいなかった。多分、不動産屋に行ったり銀行に行ったりと、普段は店があって出来ないことを定休日に集中してやっているんだろう。なんだかこの騒ついた感じに、僕は心細さを感じていた。楽しみにしているピアにも全然行けてない。

そうこうしているうちに夏休みに入った。父が祖母に”手付を払った”と話してからすでに一週間が経とうとしていた。なのに一向に転校する話をしてこない。まだ、いろいろと決まってないのだろうか。転校の話をちゃんと聞いてから、僕は友達に言おうと決めていた。
お盆も終わり夏休みも残りわずかになったある日、父が僕を呼んだ。「ともひろ、ちょっと来い」玄関で靴を脱ごうとした時だった。僕は朝から友達と遊んでいた。もう日が暮れかけている。

”やべっ、夏休みの宿題終わってねえ”
毎年恒例だが、夏休みの残り1週間となるこの日まで何一つ宿題は終わってない。ここからが地獄の始まりである。夜遅くまで親に手伝ってもらいながら、半泣き状態で宿題をやらなければならない。
”そもそもこんなにたくさんの宿題、今から終わるはずがない”
僕は遊び呆けたことを棚に上げて宿題を恨むことになる。母は、それを見て「だから毎日ちょっとづつやりなさいって行ってるでしょっ」ときつく叱る。もう一度いうが、これは毎年恒例のことである。父に呼ばれて、恐る恐る台所に行くと母もいた。宿題をやれと言われるのだと思っていたが、なんだか静かで沈んだ空気が流れていた。どうやら違うようだ。

僕は嫌な予感がした。
「ともひろ、ごめん。新しい家建てれんくなった」
父から思いもよらぬ言葉を聞いて僕は驚いた。
「え?なんで?」意味が分からなかった。
「悪い人に騙されたんや」
父の声は暗く沈んでいた。その目は悔しさでいっぱいだった。その不動産屋はお金を持っていなくなってしまったらしい。

「悪い人に騙された」という言葉に僕はぞっとした。これはニュースでよく見る、警察が来るような「事件」ではないか。黒い影が家族を包んでいくようで僕はどんどん怖くなっていった。そんなことが僕ら家族に起きるなんてあり得ない。信じられない。「えっ、いやや」思わず出た僕の言葉は意味を得ていなかった。”僕ら、どうなっちゃうんやろ”まるでその「悪いやつ」に殺されるんじゃないかと思うくらい怖かった。

僕が怯えて固まっているのを見て母はニコッと笑いかけた。
「ごめんね、ともひろ。心配せんでも大丈夫やよ。また、お父さんと一緒に頑張るからちょっとだけ待っててや。もっとおっきな家建てようね。」
母はいつも笑っていられる人だった。ただそれでもこの時ばかりは精一杯力を振り絞って笑ったんだと思う。もし、母がこの時笑顔じゃなかったら、僕は得体の知れない恐怖と不安に飲み込まれていたかもしれない。
この時、父と母は、今まで必死に働いてコツコツ貯めてきた貯金を全て失っていた。

つづく