今度は先生の先生をしました。
7月、故郷である福井の県立坂井高校で、生徒たちに講習をしました。地元の高校生に、何かひとつでも残せたら。ただそれだけの気持ちでした。 その縁がつながって、今度は福井県の家庭科の先生方に向けて講習をしてほしいと声がかかりました。総勢40人ほど。テーマは、高校生のときと同じ、ホワイトソース。
先生の先生をするなんて夢にも思っていなかったことです。相手が教える立場の方々だから、内容は一段引き上げました。まず講義をして、デモンストレーションを見せて、最後は実習まで。数時間を、粉と油脂と牛乳だけに費やしました。
なぜ、ホワイトソースなのか。
基本の一つだからです。
派手さがない。写真に撮って映えるものでもない。それでも僕は、あれほど料理の原理が詰まった素材はないと思っています。小麦粉とバターと牛乳。たったそれだけの組み合わせなのに、火加減ひとつ、加える順番ひとつでまるで別物になる。なぜダマになるのか。なぜ焦げるのか。あの粉っぽさは、どこから来るのか。ひとつひとつに、必ず理由があります。
理由を知らないまま作ると、うまくいった日を二度と再現できません。理由を知っていれば、失敗しても自分の手で直せます。プロとアマチュアを分けるのは、技の派手さではなく、この「なぜ」の解像度だと僕は思っています。そしてこの解像度は、フランスでも日本でも、どこの国の厨房でも同じように通用します。言葉が通じない現場でも、原理を理解している人間同士は必ず通じ合えます。技術とは、本来そういう普遍性を持ったものです。
先生方は、驚くほど熱心でした。手を動かす前に、質問が飛んできます。「それはどうしてですか」「生徒に説明するときは、何と言えばいいですか」。教える立場にいる人は、自分がわかるだけでは足りないことを知っています。ちゃんと相手に伝わる形にまで噛み砕いて、はじめて理解したと言える。その姿勢に、むしろこちらが学ばされました。
印象に残った質問があります。「うまくいかなかった生徒に、どう声をかけたらいいですか」。僕は少し考えて、こう答えました。失敗したソースを捨てずに、一緒に食べてみてください、と。焦げたものは焦げた味がするし、粉が残ったものは舌にざらつきが残る。その一口が、どんな説明よりも雄弁に理由を教えてくれます。料理は、間違いが必ず口の中に現れます。これほど正直な教材はそうそうない。
そして、講習の途中で、ふと気づいたことがあります。
僕が店で作る一皿は、目の前のひとりに届きます。どれだけ心を込めても、一日に届けられる数には限りがあります。けれど、この日の40人は違う。先生ひとりが、これから何十人、何百人の生徒に伝えていきます。40という数字は、40では終わりません。
正直に言えば、嬉しかったです。
一介の料理人が、教育の真ん中にいる人たちの役に立った。教壇に立ち、毎日子どもたちと向き合っている人が、僕の話を熱心に書き留めてくれた。厨房で覚えたことに、こんな渡し方があったのかと思いました。料理人と教師という、まったく違う場所に立つ者同士が組んだから生まれた時間でした。共創というのは、たぶんこういうことを指すのだと思います。
教育は大事だ。書いてしまえば当たり前の一文だけれど、あの日ほど実感を持ってそう思ったことはない。
教育は、成果が出るまでにあまりに時間がかかる。誰の手柄かもわからなくなる。数字にもならない。それでも先生方は、毎年新しい生徒を迎えて、また最初から教えている。あの熱心な質問の一つひとつは、目の前の生徒の顔が浮かんでいるからこそ出てくるものだろう。教える人がいなければ、どんな技術も一代で終わります。文化が続いてきたのは、いつの時代も、誰かが誰かに教え続けてきたからです。
だからこそ、その真ん中に立ち続けている人たちには、僕が届けられるものを惜しみなく届けたいと思った。僕にできるのは、ホワイトソースの「なぜ」を渡すことくらいだけど、それくらいいくらでも渡したい。
家庭科の授業で作られるホワイトソース。その味を覚えた子が、いつか自分の子どもに作るかもしれません。少なくとも「自分の手で作れる」という感覚は、その子の中に残ります。そしてその感覚は、選ぶ力になります。何を食べるか、誰と食卓を囲むか。原理を知っている人間は、流されずに自分で選べます。食の未来を変えるのは、大きな仕組みよりも先に、たぶんこの無数の小さな選択のほうだと思います。
食は、命と記憶に直接つながっています。だから食を教えることは、その人の一生に触れる仕事です。料理人として厨房で覚えたソースが、福井の家庭科室を通って、名前も知らない誰かの食卓にたどり着く。そういう長い距離の受け渡しを、人は文化と呼んできたのだと思います。
この日の講義が、先生方を通して、子どもたちの未来をつくる種になったら嬉しい。種を蒔く仕事は、収穫を自分の目で見られないことも多い。それでも蒔く価値がある。いや、自分の代で刈り取れないものにこそ、蒔く意味があるのだと思います。
僕たちは、料理をつくっているのと同時に、次の世代の「食」そのものをつくっています。 そしてその真ん中には、いつも誰かに教えている人がいます。


