第二章-3 フランス料理

叶わなかった父の夢。それは、古ぼけた段ボールの中で何年も眠っていた。そして、突如、僕の目の前に現れた。

ブオーン、という乾いたエンジン音が聞こえた。道路と家の駐車スペースの境には、水はけのために路肩があり、それをバックで乗り越えるためには、エンジンをふかすことになる。そのエンジン音がした。父が帰ってきたのだ。
僕の胸の中で風船が割れた。ブルルッというエンジンが止まる音、バタンという車のドアが閉まる音、そして、ざっざっざっという足をひきづる父のサンダルの音までもが、はっきりと聞こえた。窓を開けっ放しにしているということもあるが、僕の耳がその音を待っていたからだ。玄関のドアが開いた瞬間、母が「おかえりー」と皿を洗いながら、まっすぐな声で父を迎えた。

「ただいまぁ」父は、”ふぅ”っと疲れたと言わんばかりに小さな息をはいた。僕の目は、いや、目だけではなく、上半身ごと部屋の入り口に向いた。「ともひろ、イクラ持って帰ってきたから一緒に食べるか?」扉が開くと同時に、僕より先に父が話しかけてきた。「うん、食べる」僕は速攻でそう答え、まずは、イクラの事を素早く片付けた。そして、本題に入ろうとしたのだが。「お父さん、あのさ、押入れの本の事やけど…」「押入れの本?なんの本や?」僕は、何から話せば良いのか分からなくなり言葉が続かなかった。「先に風呂入ってくるわ」父は帰ってくると、いつも真っ先に風呂に入る。体が魚臭いのが嫌なのだと。僕は、小さなため息をついてテーブルのすぐ隣にある畳へと座り直した。

30分ほどして、父は、上半身裸にバスタオル姿でもどっきた。そして、そのまま畳にあぐらをかいて座る。母は父が風呂から上がるタイミングを見計らい、いつもの日本酒を燗してちゃぶ台におく。たくわんとほうれん草のおひたしも並べた。母は、大根をおろしはじめる。イクラに和えるためだ。
父がお猪口を口元に運ぶと、「押入れの本てなんや?」と隣に座っている僕を見た。僕は慌てた。「あ、えーと、荒田西洋料理っていう本が、僕の押入れにあったんやけど、なんでお父さん、西洋料理の本持ってるんや?」さっき祖母からその理由を聞いたが、それに満足はしていなかった。父から直接聞きたかったという気持ちもあった。

「あぁ、あれかあ。昔、西洋料理勉強しよう思うて買ったんや」
「だから、なんで西洋料理なんや」僕は父の答えにも満足しなかった。
「なんでってか?そやなあ、金沢で丁稚してる時に、先輩に洋食屋に連れて行ってもらったことがあってな。その時、生まれて初めてビーフシチューを食べたんやけど、それがうまかったんや。それで、洋食勉強したいと思いはじめたんや。そしたら大阪の万博であの本みつけてな。どうしても欲しくなって月賦で買ったんや。そん時のお父さんの月給は2万円やったのに、あの本は2万5千円もしたからな」父はどこか遠くを見るような目で、昔を思い出しながら話してくれた。

父は、目を下ろして僕を見つめた。そして、お猪口は再び口元に運ばれた。
「あれはその辺の洋食とは違う。あの本見たんやろ。すごい料理が載ってる。見たことない料理ばっかや。そやから、お父さん、借金してでも欲しかったんや。あん時買わんと、福井には売ってないんやから」一瞬、間が空いた。「ともひろ、あれはフランス料理なんや」
「フランス料理?」
僕は、フランスと聞いた瞬間、荒田西洋料理がすごく遠くに離れた気がした。手が届かないほど遠くに。西洋料理と言うと、語感からもまだ洋食の延長線上というか、かすかに繋がっている気もするが、フランス料理となると、僕とは、いや、日本とすら関係ないものに思えた。あまりにも遠い国の料理だ。
父の声が少し沈んだ。
「でも、福井では無理や。あの本があっても福井ではフランス料理は勉強できん。フランス料理の店なんて一軒もないんやから」父は少し悲しい目になっていた。そして、お猪口の酒を一気に飲み干した。

”福井では無理”
その言葉が、僕の希望にとどめを刺した。”そうか、無理なのか””そうだろうな。フランス料理なんて福井どころか、日本にほとんどないだろう”
僕は肩を落とした。絶望というには大げさだが、少なくとも目の前が真っ暗になった。
もうすぐ春が終わろうとしていた。
暑い夏は来るのだろうか。

つづく