第一章-3 大冒険の結末

小学生になると集団登校になり、歩いて家と学校を往復するようになった。もう毎日お店に行くことはなくなった。祖母の待つ団地に帰るからだ。そうなると両親と会う時間がほぼ無くなる。

ある日、僕は自転車でお店まで行くことを思いつく。そこで同じ団地に住む友達3人と弟を連れて行くことにした。弟の自転車にはまだ補助輪がついている。もちろん、このことを親は知らない。突然行って驚かせようと思ったのだ。そして親の喜ぶ顔が見たかった。僕も親に会いたかった。学校のこと、友達のこと、いっぱい話したいことがある。そしてみんなに父のオムライスを食べてもらいたかった。もうすぐ夏が訪れようとしていた6月初旬の少し汗ばむ日曜日のことだった。空を見上げると青空にはナミナミ雲が広がっている。父と母の喜ぶ顔が頭に浮かびワクワクした。きっと驚くだろうな。

お店まで6歳の子供達だけで行くということは大冒険だった。内一人は僕の弟で4歳だ。もちろん、僕が先頭で走った。車だったとはいえ、三年間毎日のように通った道だ。道はしっかりと覚えてる。だが、この道のりは子供の僕たちには危険な冒険でもあった。何回も信号を渡らなければいけなかったし、車が横を通り過ぎることもしばしばあった。車道を走らねばならないところもたくさんあった。そのうち、怖くなって帰りたいと泣き出す子もいた。それでも、みんなをなだめながら僕は前に進んだ。いつもはあっという間の道のりだったのに今日はお店までが果てしなく遠い。お店までこんなに遠かったっけ?本当にたどり着けるのだろうか?お泉水通りからビアの手前で左に曲がり、県立博物館のあたりまで来ていた。

もう30分は自転車を漕いだだろうか。この頃、僕も不安に襲われていた。まだまだお店は遥か遠くだ。でも、この冒険を言い出したのは僕だし、今さら後戻りは出来ない。
お店の後ろ姿が僕の視界に入った時、僕はほっとした。あれからさらに30分は走っていた。全力でペダルを漕ぎたかったが弟はついてこれなくなる。補助輪付きの自転車はスピードが出ないからだ。

「もうすぐだ!みんながんばれ!」僕は焦る気持ちを抑えて後ろの子たちを気にかけながら、でもほんの少し力を込めてペダルを漕いだ。補助輪付きの自転車がもどかしかった。ようやくお店にたどり着いた。1時間以上はかかっただろう。僕がお店に来なくなってからまだ3ヶ月程度だろうか。随分久しぶりな気がして、すごく懐かしく感じた。お店の前に自転車を置いて、ここがお父さんのお店だと、誇らしげにみんなに紹介した。長く辛かった道のりだったため、みんなもほっとした表情でにこやかだった。何も待たずに来たので喉がカラカラだった。お店に入ると、ランチが終わって後片付けをしている母が僕たちの方を見た瞬間驚いて叫んだ。

「どうやって来たの、あんたら?!」僕は誇らしげに「自転車で来た!」と答えた。「なにやってんの!危ないじゃないの!」母は顔を真っ赤にして怒った。「えっ…」僕は状況を飲みこめず頭が真っ白になった。こんなはずじゃなかった。喜んでくれるはずだったのに。

5人はカウンターに座らされた。母はクリームソーダをみんなに渡すと、すぐに子供達の家に電話をし始めた。どうやら謝っているらしい。黒い受話器を持ちながら頭をぺこぺこ下げている。みんな、喉が渇いていたのでクリームソーダを一気に飲んだ。父は母の怒鳴り声を聞き厨房からちらっと僕らを見たが何も言わずに厨房に戻った。そして手際よくオムライスを5個作り、みんなの目の前にそっと置いた。みんな、オムライスを頬張った。
僕は、涙が流れたけど声には出さなかった。母は僕に会えても嬉しくないんだ。そう思うと、なんだか悔しかった。いや、寂しかったのかも。

オムライスを食べ終えたら、母が車の荷台に自転車5台をなんとか突っ込んで、僕たちを団地まで送り返した。そして、僕を連れて友達のそれぞれの家を周り事情を話し深々と頭を下げ謝り歩いた。忙しいお店の合間に母は僕の尻拭いをしなければならなかった。その様子を見ていて自分のしたことの重大さがようやく理解できた。僕は友達や弟を危険に晒し、親に心配をかけ迷惑をかけたということを。一度はおさまった涙が再び流れ、今度は止まらなくなった。泣き声が漏れ始めた。悔しかったからではない、母に申し訳なかったからだ。自分が犯した過ちの罪悪感からだ。全ての家を周り、最後に僕と弟は祖母に引き渡された。

その時母は、「来てくれて嬉しかったよ。いつも一緒にいれなくてごめんね」と優しく頭を撫でてくれた。その手は荒れていてガサガサだった。僕は母に抱きついて声を出して泣いた。ごめんなさい、と言いたかったけど鳴き声が溢れ出し言葉にならなかった。

つづく