削ぎ落とす育成論
教育しているつもりで、人を鈍らせてしまう。
僕は、そのことを人材育成でいちばん恐れています。 成長とは何かを足すことではなく、不要なものを外すことだと、僕は思います。
僕は「人材育成」と言う言葉の裏側で行われていることの多くが、実は育成ではなく「詰め込み」になっています。知識を与える、正解を示す、失敗しないやり方を教える。一見すると親切ですし、効率的にも見えます。けれど、その親切さが行き過ぎるほど、人は自分で考えなくなる。自分の頭で問いを立て、自分の意思で選択する力を奪っていく。僕はそれを、成長ではなく「依存の設計」だと思っています。
本当に伸びる人は、何かを足された人ではありません。むしろ逆です。余計な前提や恐れを手放した人です。「こうあるべき」「間違ってはいけない」「評価を落としてはいけない」――そうした見えない制約が、本人も気づかないうちに可能性を縛っています。人は能力がないから出来ないのではなく、出来なくなる、動けなくなるような思い込みを抱え込んでいることが多いんです。
僕自身、人材育成に関わっています。けれど、僕がやりたいのは「教えること」ではありません。その人を縛っている余計な前提を外すことです。思い込みが一枚剥がれるたびに、その人の中に眠っていた判断力と行動力が戻ってくる。すると、指示を待っていた人が、自分の言葉で語り始める。正解を探していた人が、自分なりの問いを持ち始める。能力は外から与えるものではなく、本来その人の中にあるものが解放されるのだと、僕は何度も現場で見てきました。
これは、食の世界にも通じる話だと思っています。食の可能性とは、単に栄養を足すことでも、味を追求するだけでもありません。誰かが決めた正解を消費するだけでは、食は未来をつくる力にならない。何を選ぶのか、誰と食べるのか、どんな背景を持つ食材に価値を見出すのか。その選択のチカラにこそ、未来をつくる起点があります。だから僕は、食も教育も通じるものがあると思っています。大切なのは管理することではなく、ひとりひとりが自分の感性と意思を取り戻せる場をつくることだと思っています。
世界を見渡せば、多様な価値観の中で新しい価値は生まれています。一方的に教える関係からは、共創は生まれません。人と人が共に価値を創るには、まず相手を「未完成だから埋めるべき存在」と見る発想を手放す必要があります。その人には、すでに可能性がある。ただ、覆いかぶさっているものがあるだけです。そこを信じられるかどうかで、育成の質はまったく変わります。
成長とは加算ではありません。減算です。余分な恐れ、古い常識、他人がつくった正解を削ぎ落とした先にしか、本当の強さは残らない。僕はそう信じています。そして、それこそが人を鈍らせない育成であり、未来をつくる教育だと思っています。
教えることより、解放すること。
僕はその視点から、人にも、食にも、未来にも向き合っていきたいです。
僕たちが削ぎ落とすべきものを見極めたとき、はじめて新しい価値は動き出すのだと思います。


