お店を開くには500万円という大金が必要だったが、それはなんとか用意することが出来た。方々駆けずり回って集めたお金だ。もちろんその大半が借金である。いや、すべてが借金だと言ってもいいくらいだった。
浮舟は和食のお店だったがランチには洋食メニューもあった。これは父の提案だった。母は父が洋食も作れるとは知らず驚いたという。カウンター12席しかない本当に小さなお店で、カウンター越しに母が接客をし、その奥にある厨房で父が料理を作る。ランチタイムにはそこそこお客さんが来て忙しかったが夜はがらがらだった。この辺りは住宅街があったし周りに小さな会社が出来はじめていたがそれでも夜は誰も歩いていなかった。繁盛すると信じて始めたお店だったが日に日に経営は厳しくなっていった。
「ねえ、お父さん、出前やったらどうやろか。ほら、周りに小さい会社いくつもあるし、線路渡ったら家もたくさんあるし。出前やれば注文あると思うんや」
その日は日曜と言うこともあってか、夜は誰もお客さんが来ず、父の包丁がまな板にリズムよく刻む音だけが聞こえていた。母は誰も座っていないカウンター席を眺めながらおもむろに父に話しかけた。父は包丁持つ手を止めしばらく考えているようだった。
「そうやな。出前やろうか」
すぐに出前用のメニューを作って、翌日のアイドルタイムに母はそれを配りに走った。
思った通り、出前の注文は徐々に入りはじめた。ただ二人でお店をやっているので母が出前に行くと、その間は父一人でお店を切り盛りすることになる。結構大変な事だった。出前をやることでお店を知ってもらえたのかお店にも少しづつだが客が増えはじめた。それでも借金もあるし幼い子供も二人いる。お店の売上だけではまだまだ生活は厳しかった。
父は早朝に福井中央卸売市場でアルバイトをすると言い出した。
「そんなに働いたら倒れるって。そこまでせんでもなんとかなるんやない?」
ただでさえ足をひきづりながら一日中立ちっぱなしの仕事をしている父の体を母は心配した。
「丸うおさんとこ人手が足りんのやってさ。世話になってるし仕入れついでにちょこっと手伝ってくるだけやから心配せんでいい」
いつも仕入れる魚屋に頼まれて仕方なく、といった感じで軽く答えた。母は父の強がりだと分かっていたがそれ以上は何も言わなかった。
市場での仕事は、競り落とされた魚を買い付けた業者の車まで運ぶことだった。毎朝4時に起きて市場に行き9時ごろにはお店で仕込みを始めていた。お店を閉めて家に帰るのは毎日夜の11時ごろである。もちろん、母も朝4時に起きて父の朝食や僕らの弁当を作り、僕を幼稚園に送りとどけてからお店に向かうという激務の毎日だった。お店の定休日は週一回の水曜日だけで、連休といえば正月とお盆くらいだ。それ以外は一日も休むことなく二人は働き続けた。
さらに父は唯一の休みである水曜日もかまぼこ工場で働くと言い出した。さすがに母も祖母もそれは止めたが、父は丁稚の時に比べたら全然働き足りないと無理に笑顔を作った。
丁稚時代には朝の4時から冬でも裸足に下駄で桶を毎日洗っていたし、仕事が終わるのは夜の12時を過ぎるが、それから先輩の洗濯物や部屋の掃除をさせられたらしい。丁稚とは住み込みで修行することだから、いわゆる寮みたいなところにみんなが寝泊まりしている。見習いは先輩の身の回りの世話も仕事のうちだったと父から聞いたことがある。
それでも生活は楽にはならず、ただでさえ無い時間を絞り出して母は内職も始めた。折りたたまれた靴下をビニールの袋に入れてテープで止めるだけの、一つ一つは簡単な作業だが、一つやって50銭という途方もなく細かい収入だ。1,000足やってやっと500円だ。そんな状況だったので僕ら兄弟は幼い頃に遊園地や動物園などへ連れて行ってもらった記憶はない。それどころか家族全員が一緒に一日を過ごすということもほとんどなかった。
ずっと後になってからだが母が、「あの時はやれる事は全部やったんや。なにもかもが必死やったから。お父さんはよう働いたわ。」と僕に話してくれたことがある。
父は忍耐強く無口な職人気質なため、苦労したことなど一切口に出すことはなかった。ただただ黙々と働いて母と共に家族を守っていた。遊園地にも動物園にも連れて行ってもらえないなんて可愛そうだと思うかもしれない。でも、そんなことはない。毎日クタクタのはずなのに、父はランチが終わって少しでも時間があると僕を厨房の囲いから出して外へ連れて行ってくれた。そして車の運転席に父は乗り込むと僕を膝の上にのせた。僕の小さな手でハンドルを握らせると、その上から父が握る。
そして店の前の駐車場をぐるぐると走りまわった。店の前の駐車場はアーケード施設全体の共有のもので広々としていた。おそらく100台は悠に止められただろう。足は届かなっかたのでアクセルは踏んでないが、父と一緒に車を運転するのは最高にワクワクした。
「ともひろ、大きくなったらなんになりたい?」
「赤レンジャー」
「そうかあ、ともひろは赤レンジャーになるのかあ。強くなれよ」
当時、スーパー戦隊シリーズのゴレンジャーがテレビで放送されていて、子供達はみんな憧れていたそして赤レンジャーは5人いるゴレンジャーのリーダーだった。僕にはそんな父が、いつもそばにいた。そして、笑顔を絶やさない優しい母がいた。
父が作るオムライスは僕にとって世界一美味しかった。それは僕だけのためだけに作ってくれた料理だったから。だから僕は幸せだったと思う。愛されていたと思う。僕はその時まだ、赤レンジャーになるんだと強く信じていたけど、もしかして心のどこかで父のような料理人になりたいと思い始めていたのかもしれない。
ハンドルを握る僕の手を父の手が握る。その手は大きく温かかった。とても安心感のある温もりだった。厨房に立つ父の背中を間近で見て育った僕にとって、父も赤レンジャーと同じくかっこいい存在だったのは間違いない。
つづく