第二章-4 磨いたガラスの向こうに

磨いたガラスの向こうに

夏が来た。
7月に入ると、箱根の現場は一変した。

山の上でも、蒸し暑さは容赦なく迫ってくる。週末ともなればランチが2回転する。
前日の夜、予約のリストが壁に貼り出される。名前がびっしりと並んでいた。

厨房は、戦場になった。朝から怒鳴り声が聞こえた。
扉の向こうから、鍋が台に叩きつけられる音。
先輩の怒鳴り声。何かが落ちる音。すぐにまた怒鳴り声。

僕はまだフロアにいた。厨房には入れていない。
それでも、その音は蹴りドアを貫いて伝わってきた。
心臓が、少しだけ速くなる。

「厨房に入っても俺は通用するんやろか」
もちろん、口には出さなかった。

ランチタイムのピーク。
フロアは静かに見えて、水面下では激流が流れていた。
料理を運ぶ。パントリーに戻る。また料理を運ぶ。コーヒーを淹れる。
頭の中で、次の動作を組み立て続ける。

余裕なんて、どこにもなかった。ただ、黒服の先輩たちは、違った。
忙しいのは同じはずなのに、動きに「焦り」がない。グラスを持つ手の角度が乱れない。移動する速度が静かすぎるほど一定だった。

お客様が何かを言いたそうにした瞬間、すでにそこにいる。

「なんで気づくんやろ」
気がつくと僕はその背中を目で追っていた。

7月も半ばを過ぎた頃、僕に新しい役割が増えた。
ワインセラーへ走ること。

注文が入ると、ソムリエが僕にメモを渡す。
そのメモを持って地下のセラーへ降りて、メモに書いてあるボトルを探し、持って帰る。
それだけだ。

暗いセラーの中で、無数のラベルを目で追う。
間違えたらどうなるかは、考えなくてもわかった。

それでも、何度も繰り返すうちに、棚の配置が体に入ってきた。
ボトルを持って戻るまでの時間が、少しずつ短くなっていく。

それだけのことだったが、確かに何かが積み上がっていた。

やがて、シェフ・ソムリエの山田さんから、「ワインの勉強してみないか?」と声をかけられた。そして、一冊の本を渡された。
「ワイン教本」というタイトルだった。
毎日、読み進めた。
でも、全く覚えられず、寝る前に少しづつノートに書き写すことにした。

ある日突然、水を注ぐ仕事も任された。

水差しを持って、テーブルへ近づく。
グラスの縁から、細く、静かに水を落とす。
音を立てない。飛び散らせない。お客様の会話を止めない。

最初の日、水差しの口がグラスの縁にわずかに触れた。
チン、という小さな音が、お客様の会話を止めた。
思わず僕は息を飲んだ。

その夜から、誰もいない時間にひとりで練習した。
テーブルにグラスを並べて水を注ぐ。また並べて、水を注ぐ。

「なんでこんなことやってるんやろ」
そう思うこともあった。でも、今やれることをやることをやろうと思った。

8月のあるランチタイム。
僕は門の前に立ってお客様をお出迎えするドアマン兼バレットの当番になった。

門の前に立ち、お客様を迎え、車を預かる。

ふと、一台の車の窓が目に入った。
太陽の光の角度で浮かび上がる白く滲んだような手の跡。

僕は急いでクロスを取りに行き、その窓を円を描くように静かに磨いた。
汚れが消えてガラスの向こうの景色が、すこし鮮明になった。

そのまま、僕はまた門の前に戻った。

食事を終えたお客様がドアを開け、そっと車に乗り込む。
窓が綺麗に磨かれていることに気がつかなかった。

僕は深々と頭を下げてその車を見送った。
ほんの少しだけ、拍子抜けしたような感覚があった。

でも、不思議と嫌な気持ちはなかった。
さっきまで確かにあった汚れが消えて、ガラスの向こうの景色が、ほんの少しだけ鮮明になった。それで十分だと思った。

誰にも頼まれていない仕事。
やっても評価されるとは限らない仕事。
気づかれないかもしれない仕事。

でも、ほんの少しだけ手を伸ばせば、そこにはまだやれることが残っている。
それを見つけて、やるかどうか。
その選択が、少しずつ、自分の立っている場所を変えていく。

別の日、同じように車の窓を磨いた。
そのお客様は車に乗り込む前に、ふと窓を見て、こう言った。

「綺麗にしてくれたんだね。ありがとう。」

短い一言だった。
でもその一言で、胸の奥が少しだけ熱くなった。
ああ、見ている人は見ているんやな、と思った。

それは達成感とも違う。
もっと静かな、手触りのないものだった。

9月に入ると、空気が変わり始めた。

山の朝は、急に涼しくなる。
厨房の怒鳴り声は相変わらずだったが、僕の耳はいつの間にかそれを「音」として聞くようになっていた。恐怖ではなく、厨房が動いている証拠として。

ワインの本は、最後まで読み終えた。書き写したノートは2冊になった。

ある日、シェフ・ソムリエの山田さんに呼ばれた。
「小川、ちょっと来い」

僕はセラーに連れて行かれた。先輩は一本のボトルを取り出して、僕に見せた。

「これがどこの産地か、わかるか」

ノートに書き写したページが、頭の中でひらいた。
産地、品種、ヴィンテージ。
僕が答えると、山田さんは何も言わなかった。
ただ、ボトルを棚に戻して、「ふん」と短く息を吐いた。

それが褒め言葉だと、なぜかわかった。

夏の終わりに、僕は一つのことに気がついた。
黒服の先輩たちの「焦りのなさ」の正体が、少しだけ見えた気がした。
あれは、余裕があるからじゃない。すでに準備が終わっているから焦らないのだと。
お客様がグラスを傾けるより前に、次を考えている。だから動き出しが、いつも一歩早い。
余裕に見えるものの正体は、先読みだった。

僕はまだ、起きたことに追いかけられていた。でも、いつかあの背中に近づきたいと思った。近づけるかどうかはわからなかったけれど、目指す形が初めてはっきりと見えた夏だった。

ふと、ガラスに映る景色を見る。
あのとき磨いた窓の向こうと、同じように。
少しだけ、はっきりと見えた気がした。

つづく

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