ある日のランチタイム、山田さんが何の前触れもなく、一本の細いボトルを僕に差し出した。
アルザスのリースリング。
スリムな瓶の形は、ボルドーやブルゴーニュとはまるで違う。すらりと背が高く、まるで細い指のように佇んでいた。
「これ、お客様の前で抜栓してグラスに注いでこい」
山田さんの目は、いつもと変わらない。やわらかくも、厳しくもない。ただ、まっすぐこちらを見ていた。
返事をしたはずだった。
でも、声になったのかどうか、自分でも分からなかった。
抜栓と注ぎ方は、ここ数週間、ずっと練習していた。
バックヤードで一人、空のボトルを相手に何十回と繰り返した。ソムリエナイフの刃をキャップシールの下に当てる位置。スクリューを差し込む角度。レバーを引くときの力の入れ方。コルクが抜ける直前の、わずかな抵抗の感触。
そのすべてを、頭ではなく手に覚え込ませるつもりでいた。
でも今、手の中にある本物のボトルは、練習のときとは重さが違う。
気のせいなのかもしれない。
それでも、重かった。
テーブルまでの数歩を、どう歩いたのか覚えていない。
気づいたら、お客様の前に立っていた。
四十代くらいの夫婦が二人。窓際の席。その日の箱根は曇っていて、外の山はうっすらと霞んでいた。
白いクロスの上に、静かにボトルを置く。
覚えた通りに、ワインの説明をした。
アルザスのリースリング。辛口で、繊細な酸と果実の香りが特徴です——そんなことを言ったと思う。お客様は黙って聞いていた。その沈黙が、妙に長く感じた。
ソムリエナイフを取り出す。
指が、わずかに震えていた。
震えているのが、自分でわかる。
「失敗したらどうしよう」とは思わなかった。
「震えていることが、お客様にバレたらどうしよう」
そっちだった。
刃をキャップシールに当てる。一周、二周。切れ目を入れて、剥ぐ。
スクリューを垂直に、ゆっくりと。
コルクが抵抗する。
その抵抗の向こうに、じわりと力を込める。
金属のきしむような、かすかな音がした。
そして——コルクが、静かに抜けた。
大きな音はなかった。溢れもしなかった。
ただ、グラスに向けてボトルを傾けると、淡い黄色の液体が、細くまっすぐに落ちていった。
リースリングの色は、春の光に似ている。
そう思ったのは、あとからのことだ。
そのときの僕は、グラスから目が離せなかった。
お客様は何も言わなかった。静かにグラスを見て、軽く顎を引いた。
それだけだった。
バックヤードに戻ったとき、背中に汗をかいていた。
秋の初めで、厨房の熱気もまだ残っていたが、それだけではなかった。
山田さんに、「終わりました」と告げた。
彼は、少しだけこちらを見て、短く言った。
「できただろ」
それだけだった。
褒められたわけじゃない。
それでも、胸の中で何かが、すうっと軽くなった。
グラスワイン用のボトルは、本来、お客様の前で抜栓しない。あらかじめバックヤードで開けておいて、グラスに注いで提供するのが普通だ。
つまり、山田さんは、わざと僕に本番を作ってくれた。
練習だけでは身につかないものがある、とでも思っていたのだろうか。
人前に立つ怖さ。
手順を、身体で覚えること。
責任を持って、一本のボトルを扱うこと。
山田さんは何も説明しなかった。
ただ、実践で教えてくれた。
そういう人だった。
それからは、ランチタイムのグラスワインの抜栓が、僕の仕事になった。
安価なグラスワインだけ、という制限はあった。
でも、それでよかった。
自分が、少しだけソムリエに近づいたような気がした。
ソムリエナイフをポケットに入れていると、それだけで、何か変わった気がした。
根拠はない。
でも、確かにそう感じた。
ここに来たとき、同期は十人いた。
それが、いつの間にか半分になっていた。
五人が、いなくなった。
辞めると言っても、普通の退職ではない。
ある朝、顔が見えない。荷物が消えている。部屋の鍵だけが、フロントに置かれている。夜のうちに、誰にも告げずに出ていく。
夜逃げ、という言葉がある。
あれに近かった。
「おいおい、また消えたか」
誰かが苦笑する。それだけだった。引き止める声も、責める声も、なかった。
僕も、正直なところを言えば、驚かなかった。
この場所は、きつい。
そのことは、誰もが分かっていた。
ただ、出ていけなかった。
出ていく理由が見つからなかった、というより——出ていったあとの自分が、想像できなかった。
ここまで来て、何も持たずに帰る。
それが、どうしても飲み込めなかった。
残った五人は、何かを話し合うわけでもなく、それでも同じ朝に起きて、同じ制服を着て、同じ場所に立っていた。
その頃、同期の萩原が、厨房に入ることが決まった。
聞いたのは、夕方のまかない前だった。
誰かが何気なく教えてくれた。それだけのことだった。
「萩原、来月から厨房やって」
僕は「そうか」と言ったと思う。
表情は、どうだっただろう。
胸の奥の方が、静かに沈んだ。
萩原は同じ時期に入った。五人残った中の一人だ。
あいつが悪いわけじゃない。
そんなことは分かっていた。
でも、それと、胸の中のざわつきは、別の話だった。
「僕の番は、いつなんやろ」
声には出さなかった。
コートハンガーに手をかけて、少しの間、そのまま立っていた。
窓の外はもう暗くなっていた。厨房の灯りだけが、ぼんやりと地面に落ちていた。
厨房から、包丁が俎板を叩く音がした。
その音は、いつも同じように聞こえた。
でも、その日は、少し遠かった。
コックコートの白さが、黒いベストとは全然違う。
それが、ひどくはっきりと分かっていた。
僕はその日、ワインを開けることができるようになった。
でも同時に、自分がまだ厨房の扉の外にいることを、前よりもずっとはっきりと知った。
嬉しさと焦りは、同じ瞬間に生まれる。
そのことを、この頃の僕は、まだうまく言葉にできなかった。
つづく

