僕はその日、どうにもそわそわしていた。授業中も心ここにあらずで、昼休みが来るのをただ待っていたようなものだった。昼になると、トメちゃんたちと一緒にいつものようにSOGOのフードコートへ向かうことにした。学校から歩いて10分ほどのこの場所には、よく足を運んでいる。お気に入りは、大きなパテが挟まれた野菜たっぷりのハンバーガー。フライドポテトとジュースがセットになって680円というお手頃価格だ。もちろん、吉野家の牛丼やコンビニの惣菜パンを買えばもっと安く済むが、フードコートでハンバーガーセットを食べていると、なんだか都会にいるような気分になれるのが好きで、週に一度はここに来てしまう。
しかし、今日の僕の心を落ち着かなくさせているのは、このハンバーガーセットではない。勝又シェフに放課後呼び出されたことが、そわそわの原因だ。昨日、勢いに任せて彼にオーミラドーで働きたいと告げてしまった自分を、いまさらながらどうにかしたい気分だった。トメちゃんは「お前、大丈夫かよ？」と不安を煽るし、村山は他人事のように笑っている。関東出身のクラスメートたちも口を揃えて「あそこはやばいよ」と言う。その言葉が、不安をさらに掻き立てる。
けれど、その不安の中に、微かにではあるが期待やワクワクが混ざっていることに気づいた。それは、勝又シェフの授業で見た、まるでアートのように美しい料理のせいだ。あの鮮やかな料理が、まぶたに焼き付いて離れない。僕もあんな料理を作りたい――そんな願いが、小さな炎となって心の中で揺れていた。
ハンバーガーをかじりながら、ストローでジンジャーエールを吸う。ポテトは最後にまとめて食べるのが僕のスタイルだ。ここのハンバーガーはバンズがしっかりしていて、食べ応えがある。野菜もたっぷりで、うまく食べないと具材がこぼれ落ちてしまう。だから、左右均等にかぶりつきながら、手で具材を押さえつつ食べるのがコツだ。そうしないと、トレーの上も口の周りも大変なことになる。
案の定、ケチャップまみれのトマトがトレーに落ちた。村山がニヤニヤしながら話しかけてくる。
「小川さ、本当にオーミラドー行くんか？」
僕は曖昧に答えるしかなかった。
「いやあ、どうしよっかなぁ」
本当のところ、自分でもどうすればいいのか分からなかった。
放課後が訪れた。迷いを抱えながら、僕は重い足取りで第二校舎へ向かう。第一校舎から第二校舎までは5分もかからない。しかし、その短い道のりが、まるで何倍にも感じられた。第二校舎に着くと、全く違う雰囲気に圧倒される。見慣れない顔ぶれに、異なる学校に足を踏み入れたようなアウェイ感が漂っていた。
階段を上り、2階の事務所で勝又シェフが授業をしている教室を聞いた。3階に上がり、二つ目の教室のドアから覗くと、勝又シェフがまだ話していた。所在なさを紛らわせるため、廊下を行ったり来たりしていたが、やがて教室の中から「起立！礼！」の声が聞こえ、僕は思わず身を固くした。
勝又シェフと主任教授が教室から出てきて、僕を見つめた。胸がドキドキと高鳴る。
「ああ、昨日の子か」
勝又シェフが僕を睨むように見た――いや、実際には睨んでいなかったのかもしれないが、その瞬間、僕は金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「はい！」
思い切り大きな声で返事をした。そうしなければ、その金縛りが解けないような気がしたのだ。
「一緒に職員室に来なさい」
主任教授が歩き出し、僕は二人の後ろを追った。職員室は2階の事務所の隣にあり、革張りのソファが並ぶ応接セットが置かれていた。勝又シェフと主任教授が座り、僕にも座るよう促された。心の中でそっと深呼吸し、ソファに腰を下ろすと、思ったよりも深く沈み込み、足が地面から浮き上がりそうになった。必死に踏ん張りながら、目の前の二人に向き直る。
「なぜ、うちで働きたいんだ？」
勝又シェフが鋭い視線を僕に向けてきた。彼の目から逃げることはできなかった。
僕は一瞬言葉に詰まったが、正直に答えた。「勝又シェフの授業を受けて、それでオーミラドーで働きたいと思いました。」確かに、そう思ったのは嘘ではなかった。
「本気なら、一度オーミラドーを見に来なさい」
そう言って、勝又シェフは立ち上がった。僕も慌てて立ち上がり、「はい、分かりました」と答えた。主任教授が「じゃあ、もう帰りなさい。担任の信田先生にはこのことを伝えておくから」と言いながら、僕の肩を軽く叩く。僕は「ありがとうございました。失礼します」と礼を言って職員室を出た。
そのまま、僕はアルバイトに向かった。遅れるかもしれないと連絡していたが、意外にも早く終わったので、バイト先に着くと店長が少し驚いた様子で迎えてくれた。
「あれ？小川くん、早いじゃない？面接、ダメだったの？」
店長の目が心なしか垂れ下がって見える。
「いえ、面接じゃないです。ただ、ちょっと話をしてきただけで…」
「そっか。うまく行くといいね」
その言葉に、まるで僕がオーミラドーに行くことを願っているかのような流れを感じてしまった。
バイトは9時に終わり、帰り道をぼんやり歩きながら、僕は自問自答を繰り返した。本当にオーミラドーに行くのか？行きたいと強く願っているわけではないが、全く嫌でもない自分がいる。自分の気持ちが分からなかった。
翌日、朝のホームルームが終わると信田先生から手招きされた。
「小川、勝又さんのとこ、早めに行ってこいよ。行く日決めたら教えてくれ。俺が勝又シェフに連絡しておくから」
「先生、本当に僕はオーミラドーに行った方がいいんですか？」
僕は迷いながら先生に問いかけた。
「ああ、小川はミラドーがいいと俺は思う。勝又シェフが雇ってくれればだけどな」
先生の言葉を聞き、僕は少し考えた末に、「じゃあ、来週の日曜日に行こうと思います」と決心した。
その後、ノブちゃんがちょっと驚いた顔で、「月曜は学校休むのか？」と尋ねてきた。
「いえ、日帰りで行こうかと…」
「えっ？箱根まで日帰り？？お前、箱根がどこか分かってるのか？」
「神奈川県ですよね？」
「そうだよ。でも、新幹線で小田原まで行って、そこからさらに山の上だ。大阪からだと片道4時間くらいかかるぞ。日帰りは厳しいんじゃないか？」
「大丈夫です。朝一で行くので。一泊するお金がもったいないですし」
「そうか、分かった。勝又シェフに連絡しておくよ」
放課後、ノブちゃんから「勝又シェフはOKだって。15時ごろ来いとのことだ」と伝えられた。
日曜日、僕は朝7時に寮を出て新大阪駅に向かった。オーミラドーへの行き方はノブちゃんが調べてくれた。新幹線で小田原まで行き、そこから13番のバスで元箱根三叉路のバス停で降りると、目の前にオーミラドーが現れるという。
バスを降りると、目の前にオーミラドーが見えた。その瞬間、鳥肌が立った。これが、あのオーベルジュ・オーミラドーなのか。約束の時間まで1時間以上あったが、僕はその場から動けずに立ち尽くしていた。そして、我に返ると「ここで働きたい」と強く思っている自分に気づいた。成り行きでここまで来たが、今は僕自身の意志がここで働きたいと叫んでいるのが分かる。それほどまでに、オーミラドーの存在感は僕にとって衝撃的だった。
この瞬間、僕は「運命」を感じていた。
つづく