第三章-3 ふわふわした面接

卒業まではあっという間だ。たった1年しかない。4月に入学したばかりなのに6月にはもう、就職活動を始めならなければならなかった。僕はフランス料理の道に進むと決めていたけど、どの道に進むのか決めかねている子もいた。特にフレンチかイタリアンかで迷う子が多かった。そしてもう一年専門学校に通うという道もあり、技術研究所と言われる2年目のコースにいく子もいる。

技術研究所の授業料は1年目より高く200万円を超えていた。当然、僕の選択肢には2年目はなかった。さらにフランス校へ留学すると言う制度もあった。この専門学校はフランスにお城を持っていて、そのお城を学校にしていた。これにはちょっと惹かれたけど、技術研究所のさらに倍くらいのお金がいる。僕にはとんでもないことだ。

夏休みまでに就職先の候補を見つけ、夏休み中に面接に行ったり、インターンとしてアルバイトしたりすることを学校から勧められ、7月には大半の生徒が就職先の候補を決め面接に行き始めていた。特にホテルへ行きたければ早い方がいいとのことだった。
そんな中で僕はなかなか候補を決められず迷っていた。僕はホテルではなくレストランを希望していたからそんなに焦ることはないのかもしれないけど、どんどん仲間が先に進むのを見て、7月の中旬ごろになって焦り始めた。

大阪での生活にも慣れてきたし、福井からもそんなに遠くないし、僕はこのまま大阪で修業先を見つけようと、大阪で一流と呼ばれるレストランを片っぱしから見比べることにした。見比べるというのは進路相談室にある求人ファイルを見比べるということだ。
ただ、一流のレストランに就職しようとしながら、学生の身で一流のレストランなどに食べに行けるわけがないし、もっと言えばどこがどう一流なのかもよく分からなかった。そもそも一流というそのものを知らなかったのだ。スマホどころかインターネットすら普及していない時代だったので、紙のファイルの資料で店を見比べ、担任の先生や進路指導の先生に相談しながら就職先を決める。

田舎から出てきてまだ三ヶ月ほどしか経ってない、大人にもなりきっていない18の少年には、この人生を決めるとも言えるような最初の修業先をたった一人で決めるのは難しかった。
それでも、僕は夏休みが始まる直前に一つのレストランの面接を決めた。

それは大阪の真ん中の高層ビルの上の方にあり、フランスの星付きレストランのシェフが監修しているレストランだった。専門誌でも見かけたし、有名そうだったし、何よりフランスの星付きレストランのシェフが監修しているというところに心がひかれた。

早速、西欧料理の担任の信田先生に相談したところ、「いいんじゃない。面接に行ってみなよ。」って軽い返事だったけど、僕はそこに決めた。僕は、進路指導で面接の申し込みをし、夏休み直前にそのレストランに面接に行った。
大阪のど真ん中のオフィスビル街にそのレストランはあった。そのビルは、見上げるだけで頭が眩みそうなくらい天高く聳え立ち、エントランスがとにかくただっぴろくて、エレベーターすら、それだけで高級という風格を持っている。

調理師学校の入学式のために買ってもらったスーツを着て、僕は面接に挑む。進路指導部の先生から面接の受け方の指導があったけど、その通り出来る自信がなかった。
エレベーターには、エリートって感じの、スーツを着こなした大人が数人乗っていて、僕は身の置き場を探すように隅に隅にとズレるように追いやられる。目当ての階でエレベーターが止まり、ドアが開くと僕は慌てて、小さな声で「すいません、すいません」と言いながら、その箱から脱出しようともがく。周りの大人たちは、そんな僕に気がつき体をねじって道を開けてくれた。夏だったせいかもしれないが、僕は汗でびっしょりになった。いや、ビルの中は冷房が利いていたのだからそれは緊張のせいだったんだろう。まだ面接は始まっていないのに。いや、まだレストランにすら到着していないのにだ。

そして僕はレストランの入り口のドアの前に立った。
ドアの横のピカピカに磨かれたケースの中にはメニューが飾ってあり、そのメニューに書いてある文字すらなんだか高級そうな書体だった。ドアの向こう側の足元には、毛足の長い、ふかふかの絨毯が敷いてあり、ここを土足で踏んでいいのかすらためらった。
それでも時間に遅れるわけにはいかないので思い切って中に入ると、受付らしき女性が「いらっしゃいませ」と僕に近寄ってきた。僕は、進路指導の先生に教わったように、学校名と自分の名前フルネームと面接であるという要件を伝えた。ただ雰囲気に押されて声が掠れてしまった。

受付の女性は、にこりと満遍の笑顔で「こちらにどうぞ」と、僕をレストランの奥に連れて行く。僕の目の前には、これぞ高級という光景が広がった。天井にはキラキラと宝石のようなシャンデリア、壁には教科書に乗っていてもおかしくないような絵画の数々、そして一つ一つのテーブルは二人で座るにはもったいないくらい大きく、純白のテーブルクロスがシワ一つなく敷き詰められ、銀色のカトラリーがきっちりと寸分違わずその上に整列している。挙げ句の果てには、テーブルの上にキャンドルと花まで飾ってある。

ランチが終わった後のアイドルタイムだったので、照明も落としてあり暗いはずなのに、その全ては電気がなくても自ら光を放っているようだった。僕はその光景を見て、「一流ってのは貴族の世界のことなんだな」と、乏しい感想を抱いた。僕はその貴族世界の片隅にあるテーブルに案内され、同時にレストラン全体の照明がパッとついた。それまでもそこは輝いていたのに照明がつくことで、そこはもうキラキラしているとしか言いようのない眩い世界が僕の視界の全てを覆った。

だんだんと光に目が慣れていき、眩しく思えたその世界の一つ一つが輪郭を現す。すると、目の前に急に白いコックコートの男が座った。頭がふわふわした状態だったので、この男が近寄ってくるのに気付いてはいたが反応できなかった。目の前に座って初めて心の中で、あっ、とつぶやいた。光沢のある、のりの利いたコックコートを着ている男は、このレストランのシェフだと名乗って名刺を差し出した。日本人だった。監修しているのはフランス人のシェフだが、監修しているだけで普段はここにはいないというのは、考えてみれば至極当然のことだった。

僕は履歴書の入った封筒を名刺の代わりに恐る恐る差し出した。これも進路指導の先生に書き方を教わって、精一杯、丁寧に丁寧に文字を書いたものだ。ただそれだけで中身は何にもない。職歴もないし学歴も大したことない。履歴書を書きながら僕は、何も書くことがないのにこの履歴書は必要なんだろうかと、そんなことを思いながら書いたものだ。

何を聞かれてどう返事したのか、思い出せなかった。あとは内定をもらえるかどうか。落ちたらどうしよう、と思いつつ、でもそのレストランで自分が料理する姿を想像出来なかった。
あのふかふかの絨毯、あのキラキラした輝き、あまりにも僕にはそぐわない世界だったから。
いや、僕は単に怖気付いただけなのかも知れない。

つづく

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