第二章-9 荒田西洋料理ふたたび

坂口が抜けた後のベースは、サックスの常脇が担当することになった。ブラスバンド部だからだろうか。楽器は一通りなんでも出来るようだ。器用なやつだ。ただ、坂口が抜けてからというもの、みんなで集まって練習することも徐々に減りはじめた。目指すべきステージも見当たらなくなっていく。こうしてバンドは自然消滅に向かって緩やかな下り坂を降っていった。

僕のギターの腕前は一向に上達せず、ギターを弾くこと自体楽しくなくなっていく。より高価なギターや多機能なエフェクターさえあればと、せっせと小遣いを貯めて買ったが、それは宝の持ち腐れという、昔の誰かが言った言葉そのものになった。松木屋という、この地下にあるこの小さな世界では音楽の才能あるものが存在感を強める。誰一人、僕を馬鹿にする者などいないが、誰一人、僕を必要ともしない。そんな薄く消えゆきそうな霞んだ存在だった。

ある日、松木屋に向かう地下への階段を降りていくと、目の前にチャーリーが立ち塞がり、「小川くんさ、高校生のバンド集めてライブを企画してよ」と、唐突に言った。
「えっ、そんなの無理です」
僕は、その意味を理解する間も無く、条件反射のように答えた。それでもチャーリーは諦めず、僕にその企画をやってみるよう僕を説得し始めた。ただでさえ細いチャーリーの目が、さらに弧を描く一本の線のようになって笑っていた。僕は断りきれず、不安のまま、それを受けることとなった。
松木屋が主宰する学生バンドのミュージックフェスティバルのパスをもらい、当日控室に出演者をスカウトしにいくことになった。一つの大部屋に20人くらいのバンドマンが出番を待っている。
「あの、、、ライブやるんだけど出てくれませんか…」
今流行のビジュアル系バンドは必要だろうと勇気を出して部屋の右側の壁際でギターの練習をしている黒づくめの男に、恐る恐る声をかけるも、「おまえ、誰や」と、短く鋭く、そして的を得た言葉にたじろいだ。
「あ、あの、福商の小川と言います」
僕は半歩後退りしながら事情を説明した。
「そういうことね。ヤス、どうする?」
ヤスという男も黒づくめだった。しかも驚くことに壁に逆立ちをしている。どうやらこのヤスという男はボーカルでリーダー格らしい。髪の毛を立たせるため、逆立ちしてヘアスプレーをしそのまま固まるのを待っていたようだ。
「いいんじゃね」
あっけなく、一組が決まった。

僕は次々に出演バンドをスカウトし、最終的には6バンドの出演が決まった。絵の上手い友達にポスター書いてもらったり、駅前でチラシ配ったり、友達にチケット売ったり、とにかく大忙しの3ヶ月間だった。
そして高校生のライブイベントは満員御礼の大成功に終わった。大きな歓声と拍手が鳴り響く。だがその拍手は僕に向けられたものではない。裏方である僕の存在など観客の誰一人気にも止めない。それでも。それでも、僕はその拍手によって自分が確かに存在していることを実感した。
「それでね…」僕は嬉しそうにこのイベントの成功を父と母に自慢した。
「よかったね。若いんだからなんでもやってみればいいんよ」
母はいつものようにニコニコしながらも、「もうお父さん寝るからあんたも2階に上がりなさい」と、父の布団を敷き始めた。父はすでに眠そうだった。半分目が閉じている。「まだ9時やんか。もう寝るんか?」僕は話し足りなかったが、「お父さん明日も早いから。また明日聞くから」と母は僕をなだめた。

僕は2階の自分の部屋に上がりギターを手に取ったがすぐに戻した。押し入れにしまった荒田西洋料理の本が気になり、久しぶりに段ボールを引っ張り出すと、そこから1冊を取り出し表紙をめくる。するとそこに鉛筆で何か書かれてるのを見つけた。だいぶん年月が経っているためその文字は薄くかすれていたが、
”フランス料理”
そう書かれていた。父の字だ。西洋料理という印刷された文字の下に、フランス料理と鉛筆で書かれていた。この本を見つけた時、父が「これはフランス料理だ」と言ったのを思い出した。
「あれはその辺の洋食とは違う。あの本見たんやろ。すごい料理が載ってる。見たことない料理ばっかや。そやから、お父さん、借金してでも欲しかったんや。あん時買わんと、福井には売ってないんやから」「ともひろ、あれはフランス料理なんや」
体の中からじんわりと熱くなるのを感じた。僕にはやりたいことがある。夢がある。
何か料理を作ってみよう。この本に書いてある料理を。

つづく