翌日、学校が終わると父が校門で待っていた。
僕の通う松本小学校は当時、全校生徒が1.000人を超える県内有数のマンモス校だった。各学年6クラスづつあり僕は1年1組だった。この全生徒の靴を入れておくための下駄箱が玄関には何列も並び、足元には簀の子(すのこ)が敷かれている。当然、その下駄箱を全て納める玄関はかなりの大きさだった。授業が終わり、僕は下駄箱で上履きからスニーカーに履き替えて外に出た。玄関を出るとすぐに五段ほどの階段を下りることになるが、僕は階段を下りる前に父を見つけた。子供達が一気に下校する中で大人が校門に立っているのは目立った。
「あれっ?お父さん?」
父が迎えに来ることなど今まで一度もなかったから僕は目を疑ったが、どう見ても父だ。僕は視力が両目ともに2.0あったから10数m程度先にいる父を見間違えるはずはない。そのまま真っ直ぐ父のもとに駆け寄った。父も僕を見つけると右手を挙げて合図をした。
「お店に行くぞ」僕の頭に手を乗せ静かな口調で父は言った。
「えっ?なんで?」父の返事はなかった。そして僕の手を取り学校の敷地内に停めてある車の助手席に僕を乗せた。エンジンをかけサイドブレーキをおろすと、ギアをローに入れそっと車を前に動かし校門に向かう。車も人と同じようにここから出入りするようになっている。学校の前は歩道に挟まれた二車線の道路なのだがお店に向かうには校門を出てすぐに右折するのが近い。ただ車の通行量が多い道なので右折は厳しいと見た父はひとまず左折してすぐの交差点を右に曲がり別ルートでお店に向かうことにした。
僕はなぜ父が迎えに来たのか分からなかったし、昨日の自転車冒険で怒られたばかりだから戸惑っていた。「ともひろ、昨日はみんなおまえにちゃんと着いてきたのか?」信号待ちをしているときに父が話しかけてきた。「うん。みんなも行きたいって言ったから」また怒られると思ってか僕は無意識に言い訳をした。「そうか。でもおまえが連れてきたんだろ?」
確かにそうだ、言い出したのは僕だ。その鋭い言葉にビクっとしたが、口調は柔らかかった。「う、うん」僕は父に怒られることを覚悟した。この時なぜ父が迎えにきたのかが分かった。昨日のことを父親として叱るためだ。
「ともひろが先頭走ってきたんだろ。4人も引き連れて。すごいじゃないか」
だが、父の次の言葉は意外だった。父の横顔はフロントガラスからの日差しに照らされて眩しかったけど、嬉しそうに微笑んでいたように見えた。「ともひろは赤レンジャーやな」と父は真っ直ぐ前を向いたまま言った。そう言われれば昨日は全部で5人いて、僕がリーダーだったなと。そう思うとちょっと嬉しくなって頬が緩み僕は笑っていた。叱られると覚悟していただけに気が緩んだのもある。そうこうしているうちにお店に着く。学校からお店までは車で10分ほどだ。
お店に入ると母は昨日と同じくランチの片付けをしていた。洗浄機など無いので食器は全て手洗いだ。だから母の手はいつも荒れてガサガサだった。「おかえり」母はいつものように笑顔だった。ちょっと前まではいつもここに帰ってきていたことを思い出す。その頃と同じ光景が目の前にあり、僕の中に安心感が広がる。
父は僕を厨房に入れ、小さなボールと卵3個を目の前の調理台に置き、ここに卵を割れと言った。ステンレス製の調理台は高さが80センチある。僕の身長は120センチあるか無いかだったので踏み台に乗らないと作業台は高過ぎる。だから、1年ほど前から僕のためにプラスチック製の踏み台が置いてあった。卵を割るのは難なく出来た。何度もやったことがあるからだ。但し、僕は両手でしか卵を割れないが父は片手で割ることが出来る。父の真似をして片手割りに挑戦したことが何度かあったがいつも悲惨な結果に終わっていた。だから今日は両手で丁寧に割った。父はフライパンを火にかけ野菜と鶏肉、ご飯を炒め出しそれをケチャップで赤く染めた。これもなんども見たことのある光景だ。父は赤く炒めたケチャップライスを一旦別の器に移し、フライパンをさっと洗ってもう一度火にかける。そして、踏み台をガスレンジの前に移動し、僕にそこへ乗るように言った。
「ともひろ、オムライスを作るぞ。おまえが作るんや」いろいろと厨房の手伝いはしてきたが火の前に立ったことはなかったので僕はためらった。「どうした。早く乗れ!」父の口調は強くなり、僕は慌てて台の上に乗った。
つづく