第二章-2 ひとり、いなくなる

最初の一週間、僕は毎朝、薄暗い箱根の冷たい空気の中で、プール掃除とエントランスの花壇の手入れをしていた。

厨房に立ちたくて来たはずなのに、包丁どころかコックコートに袖すら通していない。持ってきた包丁は、部屋の隅で沈黙のままそこにある。
ホースを引き出す。 水がプールサイドの床を濡らしていく。 黙々と、汚れを擦り落とす。

水面の落ち葉をすくい、排水溝に溜まった汚れを取り除く。手はすぐに荒れた。爪の間に土が入り込み、日が暮れる頃には膝がガクガクになる。

それでも僕は「これも修行や」と、ひとりごとのように呟いていた。

ここオーミラドーでは、料理人を希望していても、いきなり厨房に立つことはできない。まずはサービスから。ギャルソンとして一年ほどホールを経験し、その後に厨房へ移る。それがここのルールだった。

来る前から知っていたし、「それもフランス料理界の文化なんだ」と理解もしていた。

けれど、実際にその現実を目の前に突きつけられると、思っていた以上に精神的な耐久力を試される日々が始まったのだ。

プールに浮かんだ葉をすくいながら、どこかで自分の存在が透明になっていくような、そんな心細さを感じていた。

そして、一週間が経ったころ。
ひとりの同期が、突然姿を消した。

彼女も僕と同じく、料理人を目指してここに来た。明るい子で、朝の掃除中に「寒いね!」と話しかけてくれたこともあった。ホール業務には苦戦していたようだったが、それでも毎日、精一杯やっているように見えた。

なのに、ある朝、その姿がどこにもなかった。
もう一人の同期の女の子から聞いたが、朝起きたらベッドは空で、私物はきれいに片付けられていたらしい。制服も道具も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていたのだという。

スタッフも、上司も、そのことに深く触れることはなかった。
あえて言わないことで、「これが、よくあること」だと伝えていたのだろう。

みんながそれぞれ、「自分もああなるかもしれない」という不安を心のどこかに抱えながら、黙って賄いをスプーンで口に運んでいた。

それからさらに一週間が過ぎた。

同期の仲間は、次々とギャルソンとしてレストランに入っていった。ランチの営業前、ホールに立ってテーブルセッティングを教えられ、サービス用語を覚え、シルバーの磨き方を学ぶ。

慣れない姿勢でナプキンを折る彼らを横目に、僕は一人、外でまた花壇の草取りをしていた。
焦りが芽生え始めたのは、その頃だった。

同じ時期に入ってきた仲間たちが、次々とステップアップしていく。その姿を見るたびに、心の奥に静かな苛立ちと不安が渦を巻き始めた。

「俺は、なぜまだこんなことやってるんやろ」
「俺の何が足りないんやろうか」

努力が足りないのか。態度が悪いのか。それとも、ただ運がないのか。
そんなことを考えても仕方がないと分かっていても、一度芽生えた焦燥は、なかなか消えてくれなかった。

夜、洗濯をしながら。消灯後の静まり返った寮の廊下を歩きながら。僕は何度も自分に問い続けた。
「このまま、掃除係で終わるんじゃないか」
「このまま、誰にも期待されずに、終わっていくんじゃないか」
ふとした拍子に、あの彼女と同じ道を辿る未来が頭をよぎる。
「いや、俺は絶対に逃げない」
声に出さないと、自分の心が折れそうになる。

周囲には、口に出さずとも頑張っている仲間たちがいる。悩んでいない人間なんていない。 そう信じて、毎朝の掃除に向かう。

体は疲れていても、時間だけは裏切らないと信じて。
たとえ今日もまたプール掃除で終わったとしても。
たとえ今日も、誰からも名前を呼ばれなかったとしても。

――明日こそは、何かが変わるかもしれない。

そんな小さな希望だけを胸に、僕はまだ、箱根の風の中で立っていた。
その沈黙の中で、いつのまにか、自分は何かに変わっていくのだ。
それを知るのはまだ先のことだった。

つづく

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