目の前で青い炎が輪になって整列している。その炎に蓋をするようにフライパンが被せられ、炎はフライパンの底を外側に広がろうとする。
「ともひろ、ここを左手で持て」父は僕を後ろから抱きかかえるような格好でフライパンに油を薄く塗り、そのフライパンの柄を僕に握らせた。フライパンの柄には雑巾のような分厚い布が添えられている。火傷しないようにだ。それは分かっていたが、それでもなんとなく怖かった。僕は恐る恐る左手でフライパンを握った。フライパンはずっしりと重かった。片手では持てないほどに。そして父がフライパンを待つ僕の手を上から握った。力強くしっかりと。鉄のフライパンの柄は薄く平らだ。握る手が痛かった。だけど僕は我慢した。というか声が出なかった。ガスレンジの炎の熱を僕は顔全体で感じていたがそれも怖かった。でも背中には父がぴったりと付いているので逃げられない。
父が、僕がさっき割った卵を溶いてフライパンに丸く流す。一瞬ジュッという音がして卵がグツグツと気泡を出しながら固まり始めた時、フライパンを火から外して、さっきのケチャップライスを丁寧にフライパンの向こう側に形良く置く。僕の手がフライパンを握っているとはいえ僕の意思で動いているわけでは無い。僕の手は父の思うがままにつられているだけだ。
「ここからが大事だ」
ただでさえ重いフライパンに薄焼き卵とケチャップライスがのっている。僕の力だけではフライパンを動かすことすら困難だ。父はより一層僕の左手を強く握りしめる。僕の手を握りしめるのではなくフライパンの柄をしっかりと握りしめているのだろうが同じことだ。父が右手でフライパンの柄の付け根あたりをトントンと叩いてみせる。左手でフライパンを手首を使って上に振り、それを右手の拳で叩いて、その反動で卵がケチャプライスを包んであのオムライスの形になるという仕組みだ。これも何回も見たことがある。
「ほら、やってみろ」父は僕の右手首を持ってフライパンの柄の付け根あたりを叩かせた。同時に左手のフライパンを持つ手にもグッと力が入る。不思議だった。たしかにこうすると卵がケチャップライスを包もうとする。まるで自らオムライスになろうとしてるかのように。
僕は真剣だった。だが結果は散々なものだった。いくら父のアシストがあったとは言え、そう簡単にオムライスは出来ない。
フライパンの中で不恰好になっているオムライスを皿の上に盛り、父がなんとか形にしてくれたが酷いオムライスだった。もはやオムライスと言ってはならないものだ。
父からケチャップを渡された。これが最後の仕上げになる。僕はちょっと考えたが、オムライスの上にジグザグにケチャップを絞った。
「ほら、カウンターに持って行って食べようさ」父に言われ、僕は両手でオムライスののった皿を持ってカウンターに座った。僕がカウンターに座るときは、入り口から見て一番奥から椅子を1つ空けた2つ目の椅子に座る。ちょうどお皿を洗う母の立つ位置の真正面になるからだ。厨房からも近い。母がカウンター越しにスプーンを2つ僕に手渡すと、父は隣に座った。そして父と一緒にこのぐちゃぐちゃのオムライスを食べた。
美味しい。
昨日、怒られながら食べたオムライスは味がしなかった。いや、父が作ったのだから美味しかったに違いない。僕の心がそれを受け入れられなかったからにすぎないのだろう。でも、このぐちゃぐちゃのオムライスは格別に美味しく感じた。もしかして美味しかったというのは嬉しかったという感覚との錯覚だったのかもしれない。
「美味しいってのはな、味だけじゃない」父は呟くように、でも僕の目をまっすぐに見て言った。母は食器を拭きながらその様子を見ていた。いつものように優しい笑顔だった。父は僕に今日は一緒に帰るぞと言って厨房に戻り黙々と仕込みを始めた。
僕の居場所は厨房の片隅にそのまま残っていた。閉店まで父の背中を見ながらその日を過ごした。
僕が料理人になりたいと本気で思ったのはこの時からだったのかもしれない。
つづく