4月の箱根は、春とは思えないほど冷たかった。
空気は澄み切っているのに、指先がじんじんと痛むような寒さ。
吐く息が白く、山の上のほうにはまだうっすらと雪が残っていた。
あのとき面接で訪れたオーミラドーが、再び僕の目の前にある。
白い壁と緑の屋根、どこか南仏の香りを感じさせる瀟洒な建物。
まるで夢の中の風景に、今度は“働く側”として足を踏み入れる。
「おう、君か。今日からだね」
玄関前で支配人が僕に気づき、軽く手を上げた。
その一言で、急に現実味が増した。
今日から、ここが僕の職場だ。
そしてここで、料理人としての人生が本格的に始まる。
レストランの中は、ちょうどアイドルタイム。
お客さんの姿はなかったが、奥の扉の向こうからは
鍋がぶつかる金属音、包丁の小気味いいリズム、
ソースを煮詰める香ばしい匂い――
それらが入り混じって「厨房の音楽」が鳴っていた。
その音の向こうに、僕が憧れてきた“フランス料理”がある。
オレンジ色の蹴りドアが、やけに神々しく見えた。
新人としてこの春オーミラドーに入ったのは、全部で10人。
思っていたより多い。
そのうち2人は女性で、男8人のうち、ひとりは夏休みにアルバイトに来ていたらしく、
スタッフとも顔なじみのようで、笑顔で挨拶を交わしていた。
場の空気にすぐ溶け込めるタイプのようだった。
「おい、新人! 男だけついてこい!」
突然、蹴りドアが蹴られて声が響いた。
現れたのは、コックコートを着た強面の男。
言葉少なに、さっさと外へ歩き出す。
僕らは慌てて後を追った。
車で連れて行かれたのは、仙石原の山の上。
舗装の甘い坂道をぐんぐん登っていく。
その先に現れたのが、僕らの新しい「家」――寮だった。
木造二階建て。
ところどころ壁が軋み、廊下にはうっすらと油の匂いが染みついていた。
部屋は襖で仕切られているだけで、ほとんどプライバシーなんてない。
畳の上に二段ベッドが一つ、そして狭い窓。
僕は、荻原と森本という二人と同じ部屋だった。
そう、一部屋に3人。
2段ベットに2人、畳の上に一人が寝ると言うことになる。
「風呂は一つ。順番は当然、先輩優先。新人は掃除からな」
そう言ったのが、僕らを車で運んだ強面の料理人の大谷さん。
がっしりした体格で、顔も声も怖いけれど、
どこか人情味のある雰囲気をまとっていた。
彼が寮長らしい。
その言葉に、僕らは一斉に「はい!」と返事をした。
寮の説明が終わると、再び車に乗って店に戻った。
夕方、まかないの時間。
レストランの隅にある台の上には、
前菜、メイン、付け合わせの野菜、ソースまで並べられていた。
どれもきれいに盛られ、まかないとは思えない完成度。
「これが本物の店なんだ」と思った。
どれも信じられないほど美味しかったのに、
緊張で喉を通る量は少なかった。
この日はまかないを食べたら料理に戻された。
寮に戻ると、一つの部屋に新人たちが集まった。。
それぞれの夢を語り合う。
「俺は5年でスーシェフになりたい」
「俺はフランス行く」
「俺は地元で自分の店を出す」
どの言葉にも、熱と青さがあった。
僕はと言えば、
「いつか、ここで誰よりも料理を作れるシェフになる」
とだけ言った。
荻原が笑いながら「一番ストレートだな」と言った。
次の日の朝、5時半。
大谷さんの怒鳴り声で目を覚ました。
「おい! 起きろ! 店行くぞ!」
寝ぼけた頭で顔を洗い、急いで服を着替える。
1年目は車の持ち込みが禁止されているため、
先輩の車にまとめて乗せてもらう。
車内では誰もしゃべらない。
外はまだ薄暗く、山の稜線がぼんやり浮かんでいた。
10分ほどで店に着いた。
今日がいよいよ“仕事初日”。
胸の鼓動が早くなる。
厨房に入れると思っていた。
包丁を握れる、皿に触れられる――
そんな期待でいっぱいだった。
だが、現実は甘くなかった。
「お前ら、まずはプール掃除な。」
支配人が軽くそう言った。
宿泊客用の屋外プール。
春とはいえ、箱根の風は氷のように冷たい。
冷水に手を突っ込み、藻をこすり落とす。
ブラシを握る手が震え、指の感覚がどんどんなくなっていく。
「これが“修行”か……」
誰かが小さくつぶやいた。
でも、僕は不思議と嫌じゃなかった。
思っていた“修行”とは違うかもしれない。
けれど、今、自分がこの場所の一員として働いている。
そのことが、胸の奥を熱くしていた。
終わる頃には体の芯まで冷えきっていたけれど、
心の中には、確かに小さな火が灯っていた。
――ここから始まる。
料理人としての、ほんとうの試練が。
そしてその火が、いつか大きな炎になる日を、
僕はまだ知らなかった。